「決死隊の先頭で壮烈な戦死を遂げた」と美談かのように報道 戦争に奪われた“幻のスプリンター”の無念(小林信也)
鈴木聞多(ぶんた)と聞いてすぐピンとくる読者は残念ながら少ないだろう。
本来なら、“暁の超特急”と呼ばれた吉岡隆徳の後継者として、日本のスプリンター列伝にその名を刻むはずだった陸上男子100メートルの星。ところが彼の競技人生は、戦争によって、志半ばにして奪われた。
【写真を見る】本来ならば彼の後継者になるはずが…「暁の超特急」と呼ばれた男とは?
鈴木聞多がどれほど期待される選手だったか、1936年4月21日の朝日新聞に掲載された《オリムピック我が選手 くろず・あつぷ》と題するコラムを読めば明らかだ。
〈五尺七寸十六貫、日本のスプリンターとしては大きい方で年は二十四歳、今年度の慶應競走部の主将である。その特徴はフアイテイング・スピリツトが旺んで外国人と競走すると却つて強くなることである。〉
35年の早慶対抗陸上競技大会では100メートル10秒6で優勝。同年、ブダペストで開かれた国際学生陸上競技選手権100メートルでは準優勝。ドイツでの5カ国対抗陸上では優勝を果たした。まさに、外国人と競走すると強いという解説どおりの実績を重ねている。
36年8月に開催されたベルリン五輪の男子100メートルに吉岡らと共に出場。3位まで準決勝に進める2次予選で鈴木はカナダ選手とほぼ同着の大接戦を演じたが、この大会から初めて採用された写真判定によって惜しくも敗退した。しかし、100メートルを含む4種目に優勝し世界的な注目を浴びたジェシー・オーエンス(アメリカ)は、朝日新聞の取材に応えて次のように語っている。
「日本の短距離選手を卒直に批評すると私は吉岡君よりも鈴木君をとる、何故なれば吉岡はスタートこそ良いがラストが利かない、短距離に限らず凡そ競走に於てラスト・スパートのかけ得ない選手程惨めなものはない日本選手はいづれも概して固くなり過ぎてそこに伸縮性を認められない」
外国でむしろ記録を伸ばす鈴木の持つ雰囲気に、オーエンスも将来の覚醒を予感したのかもしれない。
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