「奇跡の回復がコロナ禍で帳消しに」 女優・佳那晃子 くも膜下出血から12年半 「入院費が支払えず、生活保護を勧められ…」 夫・源高志さんが明かす夫婦の今
倒れ、いびきをかき始め…
源さんが振り返る。
「2013年の1月10日のことでした。夜、家で『報道ステーション』を見ていたんです。すると、一緒にいたかみさんが顔をしかめたように見えた。“どうしたの?”って聞いたら、顔が元に戻ったんですよね。で、“トイレに行きたい”と言ったんですが、今度は自分で立てなくなっている。そこで、肩を貸してトイレに連れていった。そうしたらそのままトイレで倒れこみ、いびきをかき始めたんです。これはまずいなと思って、すぐに救急車を呼びました」
その時は既に意識を失っていた。
「市内の病院に着くと救急処置室に運ばれて治療を受けましたが、くも膜下出血でした。医者は“出血が多くて無理です”と。生命維持の危険度を表す数値が300にまで達して、交通事故で言えば、即死のレベルだという。“明日の10時に取りに来てください”と言われたのが朝の4時頃でしょうか。これはもう、遺体を取りに来てくれ、という意味ですよね…。家に帰ってもとても眠る気にはなれなかった。まんじりともせずに部屋の真ん中に座っていたら、7時半頃、病院から電話があり、“すぐ来てください”と言われました。駆け付けると“手術をやります”。何があったのか、数値が170くらいまで回復していたそうです」
手術が終わったのは、その日の夕方だった。10時間を超える大手術だった。
「成功しました、と言われて。ただ、脳が腫れあがっているので、脳圧が持たないかもしれない。(脳圧が)50を超えたら生命維持装置を外しますと告げられました。その後の2日間、3日間は34~35くらいまで上がっていたんですが、50までは届かなかった。以降、脳圧は15くらいまで下がっていったんです。次第に意識も戻り、目も開くようになりました」
地道なリハビリ
奇跡的に一命を取り留めた佳那。その生命力には、医者も驚いたという。しかし、それは長いリハビリ生活の始まりをも意味していた。
「ベッドの上にいて動けない。目は開いていますが、天井を見つめているだけの状態でした。入院して3~4カ月経ち、状態が落ち着いた頃、先生に“リハビリ専門の病院に移った方が良い”“そうしたら回復のカーブが上がるかもしれない”と言われ、3つの病院を勧められました。そのうちのひとつが今も入院している東伊豆町の病院。ここは週に3回、お風呂に入れてくれますし、温泉が出ています。そこが良かった。紹介してもらって転院することにしました。倒れた当時は、熱海から東伊豆町まで毎日片道1時間少しかけて車で通っていましたが、さすがにキツかった。そこで4年後には、病院からすぐそばの、今のアパートに引っ越したんです」
リハビリは専門の医師が担当し、源さんの役目は毎日、お見舞いに行き、佳那に話しかけること。倒れた際は、再び歩けるようになる確率は4%ほどだと医師に言われたという。
「しかし、病院の地道なリハビリのおかげで、徐々にですが、かみさんは回復していった。毎日午前中に、身体を起こして、ベッドに座らせてもらうなどの運動を、一時間弱続けます。それをコツコツ続け、7年くらい経った時には回復のカーブがぐーんと上がってきた。話しかければ顔を動かしてこちらを向きますし、ベッドを半分ほど上げて座らせると、左右を向いたりすることも出来るようになった。車椅子に乗れるようになり、病院の中庭まで“散歩”も出来るようになった。手を持ってあげれば、二足で立ちあがれるまでになったんです。もうじき車椅子の生活まで行けるな。そう思って疑いもしませんでした」
しかし、そこを襲ったのがコロナ禍。これがすべてを狂わせた。
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