「近衞」という名を背負って…「近衞文麿」の戦犯指名と自死から80年 「文麿公直系の曾孫」が独白する「近衞家の戦後」
GHQから梯子を外され、突如として戦犯指名を受けた文麿
いよいよNHKの番組制作が始まり、取材で訪れた場所の一つが、文麿終焉の地である自邸「荻外荘(てきがいそう)」(東京都杉並区)だった。
「文麿は永田町や目白周辺に持っていた屋敷を嫌い、自然が豊富で武蔵野の面影を色濃く残していた荻窪の地を好んでいました。国の史跡に指定された母屋は、近衞家の手を離れた後に区が整備をしてくれて一般公開されています」(忠大氏)
今なお昔日の面影を留め、まったく変わらずに残っているのが、文麿が息を引き取った母屋の寝室だ。忠大氏が取材で訪れた時は、まだ文麿の次男・通隆氏が健在で、屋敷の主として快く迎えてくれたという。
「最期の晩、父・文麿はどこに布団を敷き、息子とどのような言葉を交わしたのか。そのすべてを通隆の口から聞くのは、私にとっても初めての経験です。文麿が自決した部屋には子供の頃から何度も足を踏み入れていますが、通隆の話を聞いていると、部屋のひんやりとした空気が重々しく感じられ、障子から差し込む光は薄灰色に見えました」(同)
日中戦争の収拾を図れず、米国との対立が不可避となった文麿は、太平洋戦争が始まる前に陸軍大将・東条英機に首相の座を明け渡す。
日米開戦後は、戦線を拡大する軍部に米国との早期講和を主張。まだ外務官僚だった吉田茂と共に、昭和天皇への「近衞上奏文」を作成し、終戦工作に奔走する。軍部からは「和平派」と見なされ、憲兵の監視対象となっていたことがGHQに評価されたのか、公職追放を免れた文麿は、戦後すぐに組閣された東久邇宮内閣で国務大臣に抜擢される。マッカーサー元帥と面会を果たし、国体護持と憲法改正こそ自らの役目だと意欲的に活動した。
だが、再び表舞台を歩み始めた直後の45年12月、突如として文麿は戦犯指名を受ける。GHQから梯子を外された彼の胸に去来したものは、はたして何だったのだろうか……。
〈【終戦直後の自決前夜、何が起きていたのか――「近衞文麿」没後 80 年で「文麿公直系の曾孫」が独白する「近衞家」秘史】では、80年前の12月16日に自決を遂げた前夜に親族が目撃した、近衞文麿の様子。そして次男・通隆の「何かを書いてください」という求めに応じ、文麿が便箋の表と裏にびっしりと書き殴った“遺書”の内容など、忠大氏の貴重な証言をもとに7000文字にわたり詳報している〉




