「近衞」という名を背負って…「近衞文麿」の戦犯指名と自死から80年 「文麿公直系の曾孫」が独白する「近衞家の戦後」

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「近衞首相がちゃんとしていれば戦争はなかった」と意見されることも

「私自身、『近衞』という名前を腑に落ちない、ややこしいものと思っていて、あまり意識しないようにしていた時期がありました。高校時代、アルバイトをする際は『近衞』という名前だと、いろいろ面倒なことが起こるかもしれない。そう先輩から助言をされ、『近藤』という名前に変えてもらって働いたこともあります」(忠大氏)

 今でも名刺交換をすると「文麿さんのお孫さん? 曾孫さん?」などとしつこく聞かれることが多く、宴席では高齢の同席者から「近衞首相がちゃんとしていれば戦争はなかった」などと意見されることも、一度や二度ではないそうだ。

「やはり公家出身の文麿は、人柄自体は悪い印象を持たれていなくても、逆にそういう出自で、優柔不断だったから戦争を防げなかった。政治家として強いリーダーシップを発揮できていたら、歴史は変わったのではないか。世間からそう思われていることは重々承知しています」(忠大氏)

 父・“ただてる”の生まれた細川家は、代々熊本藩主を務め、明治以降は貴族院に関わるなど常に政界の中枢にいた。祖父にあたる細川護貞(もりさだ)氏は、近衞内閣で首相秘書官を務めている。

「護貞は文麿の次女・温子(よしこ)と結婚して2人の男子をもうけます。長男は日本新党を率いて首相を務めた護熙(もりひろ)。次男・“もりてる”は、65年に母方の家を継ぐ形で近衞家の養子となり『“ただてる”』に名前を改めます。翌年に“ただてる”が三笠宮家の長女・“やすこ”と結婚、その長男として70年に東京の日赤産院で生まれたのが、私というわけです」(同)

NHK特番ナビゲーターを通じて理解した「近衞」という名前の重さ

 忠大氏が本当の意味で「近衞」という名前が持つ歴史の重さ、その重大さを理解したのは、実は四半世紀前のある出来事がきっかけだったという。

「武蔵野美術大学に進んだ私は、映像学科を創設したNHKの巨匠・吉田直哉の下で学んだ関係でNHKへ就職することになりました。結果的に長続きせず、先生には不義理をしてしまいましたが、その後も先輩や同期たちとは連絡を取り合っていました。そんな中、2001年の春に、NHKで同じ部署にいた先輩ディレクターから、計4時間にも及ぶ大型番組の企画を持ちかけられたのです」(忠大氏)

 企画の趣旨は、歴史のターニング・ポイントに生きた先祖の足跡を、現代の若者がたどるという内容だった。

「番組名はNHKハイビジョンスペシャル『真珠湾への道』で、ナビゲーターは近衞家の出身である私にしたいというのです。満州事変から国際連盟脱退、日中戦争、太平洋戦争開戦に至るまでの日本を、近衞家を軸にして描く。正直、デリケートな近代史を扱った番組に出演する不安から、心中は複雑でした」(同)

 決して口にはしてこなかったが、時には事実や史実よりも、感情的な面に重きを置いたとしか思えない記事なども目にし、一族は少なからずマスコミに対して不快な思いを抱いてきた。

「私自身も当時の紀宮さま(黒田清子さん)のお婿候補として、写真週刊誌に盗撮され、根も葉もないことを書かれた経験があります」(同)

 それでも結局、忠大氏はNHKの番組に出演することを選んだ。

「『近衞』という名前に生まれ、今まで大した役目も果たさず自由に生きてきたのだから、こればかりは自分の果たすべき義務なのではないか。その時の私は30代前半でしたが、将来家庭を持つ上でも知っておかなければいけない近衞家について、少しでも継承していくべきだと思うようになったのです」(同)

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