「何の理由をもって非国民と…」 終戦まで隠された“日本人捕虜第一号” 「口に出して言えない苦しみ」を抱えた生涯 【週刊新潮が伝えた戦争】 #戦争の記憶

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真珠湾攻撃と5隻の特殊潜航艇

 1941年12月8日、旧日本軍はマレー半島でマレー作戦を、ハワイのパールハーバーで真珠湾攻撃を展開した。1945年まで続く太平洋戦争の始まりである。

 残された写真や後の映像化作品などから、真珠湾攻撃は“空からの激しい攻撃”というイメージが強い。だが、実際は魚雷攻撃も準備されていた。機動部隊の空母から飛び立った航空機が奇襲攻撃した時、水面下では5隻の特殊潜航艇が真珠湾への突入を試みていたのだ。

 特殊潜航艇は全長約24メートルの2人乗りで、魚雷発射管2門を有していた。母艇である伊号潜水艦の後部甲板から発進したが、動力は蓄電池で航続時間に限りがあるため、攻撃終了後は潜水艦が乗員の回収にあたる予定だった。

 しかし、5艇はすべて帰還しなかった。戦死した特別攻撃隊員10名のうち9名が「九軍神」として祀られた一方、残る1名は太平洋戦争の“日本人捕虜第一号”となる。「生きて虜囚の辱めを受けず」という「戦陣訓」の言葉が絶対だった当時、旧日本海軍は終戦までその存在を隠し続けた。

終戦までの4年間は米国本土の収容所に

 隠されていたその1人は、1918年に徳島県で生まれた酒巻和男さん。1940年に海軍兵学校を卒業後、軽巡「阿武隈」の砲術士になり、やがて特殊潜航艇の乗員に選ばれた。当時は少尉。

 酒巻さんは2つの手記、『俘虜生活四ヶ年の回顧』(1947年)と『捕虜第一号』(1949年)を残している。それらによると、真珠湾攻撃での酒巻艇は最初からツキがなかった。ジャイロ・コンパス(羅針儀)が不良のまま出撃し、艇のバランスが悪く修正に数時間を要してしまう。

 コンパスが直らず、でたらめな航走を続けるうち、爆雷を受けて座礁。離礁に成功したものの、魚雷発射管を損傷して攻撃能力を失い、蓄電池も尽きた。そして再び座礁。酒巻さんは同乗の下士官と共に陸に向かって泳いだが気を失い、気づいた時は岸に打ち上げられていて、〈眼前には、背の高い米国兵がピストルを差し向けて立って居った〉。次の瞬間、米国兵に両腕を掴まれ、〈日本軍人としての最大恥辱感と最大苦悶が湧いて出た〉。

 自決の幾会を失った酒巻さんは、ハワイから米国本土の収容所に入れられ、終戦までの4年間を送る。そして1945年12月8日、米国から帰国の途についた。

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