「何の理由をもって非国民と…」 終戦まで隠された“日本人捕虜第一号” 「口に出して言えない苦しみ」を抱えた生涯 【週刊新潮が伝えた戦争】 #戦争の記憶

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戦争の記憶と南米での活躍

 1946年1月に帰国した酒巻さんは、同年8月15日に郷里で結婚。2子に恵まれたが、家に嫌がらせの手紙が届くなど、「元捕虜」に対する世間の風当たりは強かった。

〈捕虜になったからといって、何の理由をもって非国民と呼び、死ななければならないと言い得るのであろうか〉(『捕虜第一号』1949年)

 この後の酒巻さんは、自らの体験について口をつぐんだ。一方、仕事は順調で、1947年に知人の紹介でトヨタ自動車に入社。総務課や輸出課を経て、1969年にはブラジル・トヨタの社長として南米に渡った。当時の部下はその手腕を明かしている。

〈「それまでのブラジル・トヨタは赤字会社で、本社から忘れられた存在でした。酒巻さんは、外注していた部品を自社生産したり、有能な日系ブラジル人を積極採用するなどして、一転して黒字会社にしてしまった。その経営手腕を買われて、ブラジルの日系商工会議所の専務理事もやっていましたよ」〉(「週刊新潮」1989年1月26日「捕虜第一号『酒巻元少尉』が辿り着いた定年」より)

 別の同僚は“捕虜第一号”の影について証言している。

〈「酒巻さんは、ブラジルでは名士扱いでした。ゴルフ場の理事長という名誉ある地位にも就いた。真珠湾攻撃の特攻隊員ということで、勇士と見られたわけです。ただ、一緒にマージャンをしている時などに、捕虜になった時の話を聞こうとしても、“話したくない”と言っていた。日本の精神風土の中で捕虜の汚名を受けた人だから、心にカゲリがあったんだろうね」〉(同上)

現在の生活を100パーセント全力で

 貞子夫人によれば、ブラジルでの活躍には生来の真面目さも影響していた。

〈「何事にも几帳面で責任感が強い性格でした。(ブラジル・トヨタでは)14年間1日も休まず、赤字だった会社を黒字に立て直してしまったんです」〉(2000年1月13日号「墓碑銘」より)

 酒巻さんと貞子夫人が式を挙げた日付は1946年の8月15日。酒巻さんの戦争に対するこだわりが感じられる日付だが、夫人は見守ることに徹していたようだ。長男・潔さんはこう明かしている。

〈「父は戦争当時の話や、捕虜になってからの話などを、自ら進んで話すことはありませんでしたし、母も“そっとしてやるように”と言っていました」〉(「週刊新潮」1989年1月26日「捕虜第一号『酒巻元少尉』が辿り着いた定年」より)

「元軍人というより、スポーツの好きな父親という感じ」だったという。

〈「アメリカに抑留されていた時、いろいろスポーツをやっていて、トヨタでもバドミントン部をつくって監督になり、これまで世界選手権に2人の選手を出しています。父の生き方で最も感銘を受けたのは、過去にいかなることがあろうと全く表面には出さず、現在の生活を100パーセント全力で生きたことですね。決して過去は引きずらない生き方に、多くのものを学びました」〉(同上)

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