突然の別れから40年…当時の事務所社長が語る「坂本九さん」最後の日 紙袋かぶって歌った「アニメになりそうなキュートな人」

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『上を向いて歩こう』『明日があるさ』など、今も歌い継がれる曲を歌い、1985年8月12日に帰らぬ人となった坂本九さん。そんな彼を間近で支えてきた当時の所属事務所社長が振り返る、坂本さんの歌に対する思いと、あの日のこと――。(前後編の後編)

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 1961年の『上を向いて歩こう』のヒットによって、海の向こうでもその存在が知られるようになった坂本さんは長い間、第一線を走り続けていた。本業の歌手の仕事より、マルチタレントとしての仕事が増えてくると、かつて歌手としての人気ぶりにも翳りが見え――。

「その頃、(マナセプロダクション社長の)父が脳梗塞になって仕事場にあまり行けなくなって……。他のタレントもみんな辞めてしまい、九ちゃんだけが残ってくれた。それで彼の独立も含めて考えようと父と九ちゃんが話し合ったことがありました」

 こう話すのは、故・坂本九さんの当時の所属事務所社長の曲直瀬道枝(まなせ・みちえ)さん。

「わが家は代々、芸能事務所の仕事をしていたのですが、私は当時その仕事が嫌で嫌で、お花屋さんをやっていました。母が元気だった頃に仕事柄、花屋通いをした日常があったので、母が亡くなった後にお花屋さんを開業しました。3店舗目を出した頃…そこへ九ちゃんが口説きに来たんですよ、父親の名代の弁護士と一緒に。“プロダクションの社長になってくれ”って(笑)。私がこの仕事を嫌いだと知っていながら“みーちゃん、やってくれないか”って」(曲直瀬さん、以下同)

 押し切られるように曲直瀬さんが社長の仕事を受けたのが’83年。歌手という“原点”で勝負したい、という坂本さんの思いを叶えるため、バラエティータレントというイメージを変えるため、九ちゃんと新社長は二人三脚で、様々なことを試していった。

紙袋をかぶっても歌を歌いたかった

「永(六輔)さんにね、“九ちゃんみたいな名士が歌ったって、もう誰も聞きたくないんだよ。紙袋でもかぶって歌うなら歌が際立つんだけどね”と言われたの。そしたら九ちゃんが“じゃあ、紙袋かぶって歌おう”って本当にやっちゃった。坂本九だとわからないように目と口だけ空けた紙袋をかぶって“XQS(エクスキューズ)”という名前でレコードを1枚出しました。あまり売れませんでしたけどね」

 そして’85年、担当のプロデューサーの新田和長さんが独立して作られたFUN HOUSEにレコード会社も移籍。5月22日には『懐かしきlove-song/心の瞳』をリリース。

「“今のポップスは大人が歌える曲がないよね”って。そんな歌を歌いたいと、たくさん打ち合わせをして、荒木とよひささんと三木たかしさんのコンビで作ってもらった曲でした」

 まるで由紀子夫人へのラブソングのようなこの2曲に手応えを感じ、坂本さんは歌手としての活動に再び光を見出していた。

 しかし運命の8月12日が来る。

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