『上を向いて歩こう』65年目 “パジャマのまま車に担ぎ込まれ……” 坂本九さんの当時の事務所社長が語る熱狂と素顔
日本のJ-POPや韓国のK-POPなど、アジアのミュージシャンたちがアメリカのヒットチャート、ビルボードを賑わせることが珍しくなくなった昨今。そんな状況がまだ夢物語だった1963年に3週連続で1位を獲得した日本人の歌手がいる。『上を向いて歩こう』(米題『SUKIYAKI』)を歌った、故・坂本九さんだ。60年以上経った現在でも、全米1位を獲得した日本出身者の歌手は坂本さんだけなのだ。
そんな彼が、日本航空123便墜落事故で亡くなって今年で40年。『上を向いて歩こう』のリリースからは来年で65年を迎える。(前後編の前編)
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過密スケジュールの人気スター
幼馴染のような関係性を経て、後年、当時の所属事務所社長として最後まで彼をサポートした曲直瀬道枝(まなせ・みちえ)さんが語る、坂本さんの思い出話とは――。
「うち(マナセプロダクション)に九ちゃんが所属したのが'59年。彼が18歳のときですね」(曲直瀬さん、以下同)
高校在学中にバンドボーイから『井上ひろしとザ・ドリフターズ』(のちの『ザ・ドリフターズ』)に加入。ロカビリー歌手として『日劇ウエスタンカーニバル』で、新人賞を受賞した。その後、学業に専念するため芸能活動を休業しようとしていたそうだが、
「私の姉の信子が“どうしてもうちでプロデュースしたい”と、九ちゃんと彼のお母さんを説得して引っ張ってきた。当時、私はまだ学生。九ちゃんと一緒に仕事するのはもっとずっと後なので、“居候の人”くらいのイメージでしたね」
当時からすでに人気者だった坂本さん。1年間で映画に6本出演、レコードを9枚リリースするなど、今では考えられないハードスケジュールで仕事をこなしていた。
「九ちゃんの実家は川崎。帰る時間がもったいないから、と私の実家のお納戸で寝起きしていた時期がありました。夜遅く、寝るだけのために送られてきて、朝はパジャマのまま車に担ぎ込まれて、現場までそのまま寝ていく。そんなことが当たり前の日々でした。九ちゃんが帰宅するのは、お手伝いさんも帰った深夜帯が多かった。だから“ご飯が食べたい”となったら私が作ったりもしました。毎日じゃないけど、ちょこちょこ顔を合わせてはいましたね」
居候であり幼馴染だった
坂本さんは当時の社長夫妻を尊敬していた。その娘で年齢も近かった自分は“安心できる、ちょうどいい話し相手”だったのだろう、と曲直瀬さんは振り返る。
「“学校ではどんなことやっているの?”とか、色々と聞かれましたね。大学に行っている同世代の女の子は、どんなことを考えているんだろう、とか思っていたんでしょう。知らないことに対して、すごく向学心がある人でしたから。素顔の九ちゃんは、あの頃からものすごくピュアで、明るくて可愛い人。今思えば私にとって、幼馴染のような存在でした」
忙しい日々を送る中、あの名曲が生まれる瞬間が近づいていた。
「姉・信子が当時の人気テレビ番組『夢で逢いましょう』の演出家・末盛憲彦さんや、ピアニストで作曲家の中村八大さんといった若いクリエーターと仲が良かったんです。八大さんがリサイタルをやるとき、九ちゃんに1曲歌わせてくれないか、と信子が持ちかけて。そこで書いてくれたのが『上を向いて歩こう』でした」
そこに中村さんと早稲田大学で一緒だった永六輔さんが詞を付けた。
「当初、永さんが書いてきたのは長い歌詞。でも八大さんが“ここは合わない”なんて言って、どんどん削り取って。それで最終的にあの歌詞になったんですって」
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