「渋幕」から「慶大」に進学した銀盤の才媛「高橋成美」…なぜ平昌五輪の閉幕直後に“引退”を決めたのか
フィギュアスケーターペアの元日本代表で、2014年のソチ五輪に出場した高橋成美(たかはしなるみ=33=)氏は、競技生活を続けながらも屈指の難関校として知られる渋谷幕張高校を経て、慶應大学に進学した才女としての顔を持つ。現在は解説者やタレント、日本オリンピアンズ協会の理事としても活躍を見せる高橋成美氏に、カナダで競技を続けながら挑んだ大学受験の思い出や、五輪を経験して感じた思いを語ってもらった(全3回中の第2回)。
仲間の大切さを知ったカナダ留学
父の仕事の都合により14歳まで北京で過ごした高橋氏は、中学2年生の時に帰国。難関進学校として知られる渋谷幕張高校に進学を決めたが、スケート競技に打ち込める環境を求めて、高校2年だった2008年にカナダへと渡った。
その後まもなくコーチの紹介をきっかけに「息がピッタリで、絶大な信頼を置いていた」というマーヴィン・トラン選手とペアを結成することに。スケートではジュニアとシニアの大会を掛け持ちし、学業面では現地のハイスクールと日本の通信制高校に通うハードなスケジュールをこなしながら、大学受験に向けた準備を進めていった。
一見すると、日本で過ごしていた頃よりも学業の負担が増しているように思われるが、高橋氏が拠点としていたモントリオールでは、「スポーティチュード」と呼ばれるスポーツに取り組む学生に向けたプログラムがあり、競技の都合に合わせて時間割が調整できるような配慮がなされていたという。
「カナダで生活するようになってからは、勉強と競技の両立は楽になりましたね。日本の大学に通いたかったので、日本の高校にも通いましたけど、人生で初めてオンラインの授業を受けてみて、その便利さの反面、モチベーションを維持することが本当に難しくて。一緒に勉強を頑張れる友人が、私にとって本当に大きな存在だったことに気付かされました」と当時感じた思いを振り返る。
あえて個性的な道を進んだ
海外で過ごしながら独学で受験勉強に取り組んだ高橋氏は、2010年にAO入試で慶應義塾大学総合政策学部(以下、SFC)の合格を掴んだ。
「当時は早稲田大学に進むスケート選手が多かったこともあり、あえて『個性的な道を進んでみたいな』という気持ちや、自分の学びたいことを自由に学べるSFCの方針に共感したこと。そして『スケートを軸に人生を楽しんできた私らしい学生生活が過ごせるのではないか?』という思いが、進路選びの決め手になりました」
だが、大学入学は果たしたものの、海外への遠征が続く競技と、学業の両立は困難を極めた。
在学2年目までは前期は学校に通い、シーズンが始まる後期は休業してスケートに専念する日々を過ごした。毎年秋になると、コーチとトラン選手が日本に住む部屋を用意し、横浜のリンクに通いながらペアの演技に磨きをかけた。その甲斐もあって2011-2012シーズンには、世界選手権(2012年4月)で総合3位入賞を果たし、日本のペアとしては初のメダルを獲得。五輪での活躍も期待されたが……。大会の余韻が残る中、高橋氏は練習中に左反復性肩関節脱臼の大怪我を負うことに。さらには、息の合った演技を見せていたトラン選手の日本への帰化が難しかったことも影響し、ペアを解消することに。約2年後にソチ五輪を控える中で、高橋氏は苦しい状況に追い込まれることとなった。
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