不朽の名曲の誕生前 丸井でギターを買い、ラジオで歌って“修業”した丸山圭子の原点

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 ボサノバ調でアンニュイなニュアンスをまとった1976年のヒット曲「どうぞこのまま」で知られる丸山圭子(71)。18歳でデビューしてからこの曲が発売されるまでには3年半の月日があった。ラジオ番組で毎日のように自作曲を発表するという“修行”を経て、あの名曲は生まれたという。

(全2回の第1回)

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歌うことは音楽の基本

 3歳からピアノを始めた。2歳上の姉が習っていたのを見て「私もやりたい」と両親にせがんだ。最初の先生は優しかったが、小学3年でついた芸大出身の先生は厳しく、怖かった。

「レッスン中はおろか、待っている間も一言もしゃべれないし、背筋は伸ばしてなきゃいけない。緊張感がものすごくて。でもいい先生で『ピアノを弾きながらメロディを歌ってごらん、音楽のメリハリや気持ちの入れ方には歌うのが一番分かるから』と教えてくれた。みんなの前で歌わなきゃならず、子ども心に恥ずかしかったですが、今思えば、音楽の基本をしっかり教えてくださいました。どんな楽器の演奏者も、歌うことが基本だと私も思っています」

 リズム感を大切にする教え方は、のちに作曲をするようになってからも大いに役立った。音楽面ではピアノのほかポップスも大好きで、厳しかった父が外出している際を見計らっては、「ザ・ヒットパレード」や「アンディ・ウィリアムズ・ショー」などを姉とともに楽しんだ。

「そうした番組で、オズモンド・ブラザーズにも憧れました。当時はアメリカの音楽に触れる機会もそうそうなかったので、ヒットソングを一通り聞いて覚えていった感じですね」

丸井でギターを買い、バンドを結成

 中学に入るとフォークソングに惹かれ、「ギターをやりたいな」と考えるように。高校入学後には女子3人でバンド「サンデースプリング」を結成し、ギターを買いに出かけた。

「最初は、高校のクラブの備品を借りていたんですが、自分の楽器が欲しくなってマルイで買いました。どうやって月賦を組んだか覚えてないんですけど、その日にモーリスのギターを持って帰りました。父が高1で亡くなっていて、母からは学費も含めて『自分でやりくりしなさい』と毎月一定額のお金をもらっていたんで、それで払ったんでしょうね(笑)」

 通っていたのは埼玉県・浦和の名門女子校、浦和第一女子高校。文化祭の「一女祭」には今でも毎年1万人以上が訪れることで知られるが、丸山はその舞台でフォークグループ「五つの赤い風船」のコピーや、「赤い鳥」が歌っていた「竹田の子守唄」などを披露した。

「当時の一女祭は2万人ぐらい集まったかな。だからやりがいはバリバリにありました。広い階段教室で歌いましたね」

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