不朽の名曲の誕生前 丸井でギターを買い、ラジオで歌って“修業”した丸山圭子の原点

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作詞作曲も始める

 同じ頃に曲もいくつか作り始めた。後にデビュー曲となる「心の中の」も含まれていたが、全く自信が持てなかったという。

「『心の中の』も自分ではダメだと思っていました。こんな歌じゃなあという思いがあって、人前では歌っていなかったんです」

「心の中の」のようなリズムのある曲はギターで、一方、バラードなどはピアノで作っていた。高校3年のときにニッポン放送主催の「VIVA唄の市」に出場した際にはピアノで「しまふくろうの森」を作った。目立ちたいという気持ちから、メッセージ性の強い絵本を読んだときのインスピレーションから完成させたのだという。

「埼玉県予選の日は大雪だったんです。予選は通過できましたが、シマフクロウの生息地は北海道なので、雪の日に合っていたかもしれません。それに会場の埼玉会館には同級生が詰め掛けていたので、会場票を入れてくれるようにお願いしましたからね(笑)」

「私の歌でお金がもらえる!」

 その後、神田共立講堂で行われた本選でも入賞を果たした。

「緊張で声が震えていたし、周りは何年もバンドをやっていたような人も多かったから、だめだと思っていたんですが、逆に無欲だったのが良かったのかも。入賞なんて全く頭になくてびっくりしました」

 プロを目指すつもりすらなかったが、自然な流れのようにレコード会社から声がかかった。ソニーとエレックレコードの2社である。吉田拓郎や泉谷しげる、フォークデュオの古井戸やケメ(佐藤公彦)らが所属した後者を選んだ。

 オーディション合格後には、シンガーソングライター・ケメの前座で歌うよう言われた。

「当時のケメは郷ひろみさんと人気を二分するようなアイドルシンガーソングライターでした。1,000人クラスの聴衆を前に前座で歌いましたが、自分は全然だめだなあって思っていました。ただ、その前に銀座のコアビルで歌い、初めてギャラをもらいました。3,000円でした。私の歌でお金がもらえるんだ、と嬉しかったですね。歌えばお客さんがその場で反応してくれるので嬉しいし、やりがいがあって、自分の性格にも合っていました」

 アルバム用の曲作りも始めた。マルチトラックはまだ8チャンネルしかない時代だったが、ジャズの大御所・澤田駿吾によるストリングスやブラスのアレンジも贅沢に使い、「しまふくろうの森」をはじめとする楽曲が形になっていった。素晴らしいアレンジに興奮したという。

 やがてケメが脱退したバンド「ピピ&コット」にボーカルとして加入し、人気テレビ番組の「ぎんざNOW!」(TBSテレビ系)や「ヤング・インパルス」(TVK)などにも出演。全国各地を訪れて歌う日々が続いた。個人では、ラジオ関東(現・ラジオ日本)の「キョーリンヘルスフォーク・圭子のソネット」という10分の帯番組を担当。月曜から金曜まで、自身の曲を流しながら喋る2年半が続いた。

「番組でかける曲はオリジナルでいいと言われたんです。最初の3カ月は喋りが下手なので降板させられそうになりましたが、構成作家をつけてもらって、私を育てながら番組を作ってくれていたんです。今では考えられないような恵まれた環境でした」

 ラジオでかけるために曲もどんどん作った。その中で特に人気を集めた曲は、後に移籍したキングレコードで出した最初のアルバム「黄昏めもりい」に収録された。

「エレックレコードのスタジオでしょっちゅう録音しては、それをラジオで流していました。アーティストルームもあったので、ギターを弾きながら廊下を歩いていたCharに『ちょっと弾いてくれる?』なんてお願いしたりして。『ラヴ・イズ・オーヴァー』を作ることになる伊藤薫も仲良しで、曲を聞かせ合ったり。『シュガー・ベイブ』時代の山下達郎さんもいて、『黄昏めもりい』のときにはコーラスを3曲お願いしました」

 綺羅星のごときアーティストが集っていた環境で、ピピ&コットの解散後にはキングレコードに移籍。1976年に、いよいよあの名曲が生まれることになる。

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 プロとしての第一歩を踏み出した後、力を蓄えていった丸山。第2回【危うく未収録になりそうだった名曲…80万枚超ヒット「どうぞこのまま」 丸山圭子が貫いた“これは絶対”の想い】では、名曲「どうぞこのまま」の誕生秘話などを語っている。

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