顔が青黒くむくみ、目が腫れて……「死の島」で日本軍兵士が苦しんだ「飢餓浮腫の恐怖」

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 中でも、シンガポール沖のリアウ諸島にあるレンパン島に抑留された日本人たちは、同島を「恋飯島」と呼ぶほどの飢餓を味わい、栄養不足による浮腫に苦しんだという。

 日本軍兵士らの貴重な日記類を読み解き、南方抑留の歴史的背景と実態を明らかにした『南方抑留 日本軍兵士、もう一つの悲劇』(林英一著、新潮選書)から一部を再編集し、「死の島」とも呼ばれたレンパン島の様子を紹介しよう。

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 さて、レンパン島に、園部ら財務部先発隊11名を含む第三六梯団第二大隊が上陸したのは、1945年11月28日のことだった。同島は、第一次世界大戦中にイギリス軍に降伏したドイツ人捕虜2000人が送られるも、マラリアで全滅したことから、「『篩(ふる)いにかける』島」とか「死の島」といわれていた。

 上陸の様子について、園部が約1カ月後に振り返って日記に書いている。その記述によれば、島を目視したのは陽が沈む午後7時。大発動艇で島の南部の「宝港」に上陸するが、桟橋を踏んだ瞬間、泥濘の道に足を滑らせてあっと声をあげたという。闇の中を20キロはこえるリュックサックを背負って歩くのに難儀し、わずか1キロ先の軍隊集合所まで何時間もかかった。そして夜中の12時には「みな疲れと、苦しみとに興奮して怒鳴り合い、いきり立っ」ていた。

 園部たちが天幕を張り、焚火を囲んで乾麺麭(かんめんぽう)で空腹を満たし、煙草を吸っていると、その匂いに吸い寄せられるように先にレンパン島に収容されていた兵隊が1人、2人と現れて、煙草を所望した。同情した園部が1本差し出すと、兵隊はそれを吸わずにしまって、吸殻を拾いはじめた。よくみると、粗末な下衣に半裸で顔色は生気がなく茶色かった。

 別の一角ではリュックサックを盗んだ兵隊が捕まり、叩かれるという騒ぎもあり、園部は島の物資不足と兵隊の気分が乱れていることに驚いた。後に「この一夜の印象の悪さは、その後のレーション〔引用者注:携帯口糧〕の配給とか、後続隊の到着とかによって幾分緩和されてはきたが、なお根本的には拭われていない」と記している。

 一方で、園部よりわずか3日遅れて上陸した後発隊員に「青膨れしてきた」と評され、「先発隊同志(ママ)だと互に分からなかったことを、指摘されて、驚くと同時に、私共はもう上陸の日会って驚いた兵隊と同じような生活状態に入り込んでしまったのかとがっかりさえした」と悲観した。
 
 この3日遅れで上陸した隊員のなかにいたのが陸軍軍属の橋本徳寿で、彼の日記『雲かがやけば希望あり』には、レンパン島上陸時に「『泥棒が多い、各自注意せよ』といふので荷物をとほく離れるわけに行かない。日本人しかゐないこの島で泥棒が多いとは情ない話だ。先発隊では、ここでリクサツクを盗まれたものがあるさうだ」と、園部が上陸した当夜の出来事が噂されていたことが記されている。

 また、翌日には、「向うからくる兵隊たちの顔いろのわるいこと、青黒くむくんで、目がはれぼつたくみんなほそい目になつてゐる。一ケ月ほどまへに著いたのださうだ。一ケ月たつと、私たちもみんなこんな風になつてしまふことであらう。思はずぞつとした。私たちのまはりに兵隊たちが寄つてくる。別に話をしかけてくるのでもない。私の捨てたタバコを、兵隊がちよつと会釈をして拾つて吸つた。『さうだつたのか』私は直ぐに了解した。タバコの袋を出して、五六人の兵隊に一本づつやつた。五六本私の分がのこつた」と、園部と同様の体験をしていたことがわかる。
 
 このとき兵隊たちが青膨れしていた原因はタンパク質とビタミン不足によるもので、その後、12月4日に南部の「千鳥港」で米、大豆、みそを受領したものの、園部いわく「青膨れしないものはなく、ぐったりと毛布にくるまったきり、作業も止むなく出るという状態であった」。この青膨れは正式には「飢餓浮腫」というが、「レンパン浮腫」という造語を用いることで、精神的苦痛を和らげようとしていたという。

※本記事は、林英一『南方抑留 日本軍兵士、もう一つの悲劇』(新潮選書)を再編集したものです。

林英一(はやし・えいいち)
1984年、三重県生まれ。慶應義塾大学大学院経済学研究科後期博士課程単位取得退学。一橋大学博士(社会学)。2025年7月現在、二松学舎大学文学部歴史文化学科准教授。インドネシア残留日本兵の研究で日本学術振興会育志賞受賞。著書に『残留日本兵の真実』『東部ジャワの日本人部隊』(ともに作品社)、『皇軍兵士とインドネシア独立戦争』(吉川弘文館)、『残留日本兵』(中公新書)、『戦犯の孫』(新潮新書)、『残留兵士の群像』(新曜社)など。

デイリー新潮編集部

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