プロレス界ナンバー1の「怪力レスラー」は誰か…力道山に可愛がられ、猪木に恩人と呼ばれた“心優しき力持ち”…「豊登伝説」を検証する

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 現在、新日本プロレスの社長を務める棚橋弘至が、遠征先のホテルのドアを引っ張ると、「ドアノブが根底から外れた」(棚橋)ことがあったという。SNSで写真もアップされていたが、優男のイメージがある棚橋だけに驚くかもしれない。しかし、プロレスラーのパワーはやはり未だ規格外なのだ。

 力自慢のレスラーは多い。平成では“野人”として知られた中西学がピカイチで、泥酔した夜、自宅の冷蔵庫を開けようとしたら、ドアが跳ね飛んだそうだ。逆側に手をかけて開けようとしたのである。中西家の冷蔵庫が両開きのものになったのは、それが原因だとは、本人の談である。なお、引退後、SNSで巨大お好み焼きを食す姿を拝見し、「流石に大きなお皿で食べてるな~」と思ってよく見れば、ホットプレートをそのまま持って食べていた

 それでは昭和まで遡り、一番の怪力レスラーは誰かと言えば……答えは1人しかない。豊登道春(1931~1998)である。

 オールドファンには、両腕を交差させて脇を「カポッ」「カポッ」と鳴らすパフォーマンスが懐かしい。その豊登が亡くなったのは27年前の盛夏のこの時期だった(7月1日)。

 数々の怪力無双ぶりとともに、故人を振り返りたい(文中敬称略)。

福岡の怪童

 1931年、福岡県生まれ。祖父は「波切」という四股名を持つ力士で、豊登も幼少期から力士に強く憧れていたという。腕力の鍛錬に勤しみ、家で薪割りを手伝う際は、鉈を腕一本で持ち、スパスパと薪を割っていた。中学生の時、精米屋が冗談で「持ち帰れたら、タダであげるよ」と、70キロはある米俵を指さすと、豊登は、軽々と担いで帰宅したという。余りにも剛腕への願望が強く、近所の神社に「僕は字なんて一生書けなくていいですから、日本一の力持ちにして下さい」とお願いしていたというこぼれ話も聞いたことがある。

 豊登の情報については、筆者が懇意にさせて頂いていたプロレス評論家の菊池孝氏と、元新日本プロレスの新間寿氏にうかがうことが多かったが、この願掛けの逸話については、さすがに「ちょっとファンタジックな作り話だろう」と筆者は思っていた。

 ところが近年、プロレスグッズSHOPに豊登の生前の持ち物が出て来てビックリ。その中に、自身の『漢字練習帳』があったのである。表紙に書かれた日付は1953年4月25日とあるので、豊登(3月生まれ)が22歳の頃だ。数ページにわたり、「顔」「薬」「酒」などの一般名詞が漢字で書かれており、横に読み仮名が振られてあった。おそらく読み方を知るためのノートだったと思われる。漢字を不得手としていたのは間違いなかったようだ。「字を書くのも苦手だから、サインを求められても断っていたよな」とは、前出の菊池氏の回想である。

 1947年の角界入りからその驚異的なパワーを発揮する。新弟子検査で握力計を握ると、100キロまで計れる握力計が壊れてしまったのだ。十両まで昇進したが、親方との不仲により廃業すると、既に日本プロレスを旗揚げしていた力道山から、誘いの手が伸びた。

「お前のパワーなら、プロレスの方が稼げるぞ」

 実際、力道山は豊登を買っていた。プロデビュー後、改めてリング上から紹介されるセレモニーがとりおこなわれたのだが、その場はあの歴史的大一番、「昭和の巌流島」と呼ばれた力道山vs木村政彦の試合開始前だったのである(1954年12月22日・蔵前国技館)。

 デビューしたばかりの豊登が、他の選手たちを驚かせたのは、なんと工事現場だった。当時、日本プロレスは道場、事務所、かつ合宿所に映画館も併設した5階建ての「レスリング・センター」を日本橋・人形町に建設していたが(1955年7月竣工)、それを他の選手とともに手伝っていた豊登が、基盤の骨組みであるHの形をした通称「H鋼」を見て、「これはこの位置ですね」と、1人で持ち上げて設置したのだ。5階建てビルの基幹素材であり、300キロ以上はある代物だった。そうかと思えば、これも日本橋にあった仮設国技館の天井に渡してある梁を掴み、ウンテイのようにして東から西まで移動したことも。落下すれば即死……と書きたいところだが、これほどの人物なので、軽傷で済んでいた可能性もある。

 中でも伝説化しているのは、渋谷にあった娯楽施設「リキパレス」1階に設置された、ボウリング場でのエピソードだ。

 試合場が3階にあり、しかもボウリング場側が出口に近かったため、よく豊登が姿を見せ、ファンに頼まれてサービスで投てきすることがあった。そのフォームが凄い。野球のボールのように振りかぶって投げていたのである。するとある時、一投が勢いよくその横の壁に激突。傍目にもわかるほど大きくへこんだ。リキパレスと言えば、上階には力道山の社長室がある居城である。豊登は逃げるように去って行ったという。他にも、グレート小鹿の思い出話によれば、球で「ボウリング場の天井を突き破って大穴を空けてしまった」こともあったとか……(「東スポWeb」2012年12月14日付)。

 しかし、力道山はその剛力に一目置いていたのか、豊登にはお目玉を食らわせず、タッグパートナーとして重用。そんな関係であることに加え、性格が穏やかだったため、力道山に言いにくいことを、豊登を通じて言わせる者が後を絶たなかった。逆に言えば下から慕われていたわけで、力道山の付け人を務めていたアントニオ猪木もその一人だった。

 力道山の暴力に耐えられず、逃亡しようとすると、心配した豊登が焼き肉に連れて行ってくれた。「あの時の豊登さんの優しさがなかったら、今の私はいない」が、猪木の口癖でもあった。

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