プロレス界ナンバー1の「怪力レスラー」は誰か…力道山に可愛がられ、猪木に恩人と呼ばれた“心優しき力持ち”…「豊登伝説」を検証する
ギャンブル中毒が……
温和な性格からか、本人は無性の照れ屋だったが、その実力は放っておかれず、力道山の死後は日本プロレスにおいて、短期間ながら、豊登が2代目のエースとなった。「つなぎのエースでいい」と本人らしく謙遜したが、ファンの支持は極めて高かった。テレビ中継において最も視聴率を稼いだプロレス中継が力道山vsデストロイヤー戦であることは以前も触れた通りだが(64.0%。「デイリー新潮」2024年6月1日配信)、2位はこの時期の豊登vsデストロイヤーの51.2%である(1965年2月26日放送。なお、歴代全番組中では35位)。
ベアハッグ(サバ折り)やアルゼンチンバックブリーカーなどをフィニッシュとする、わかりやすいパワーファイトで人気を集め、“和製ポパイ”の異名も得た。外国人選手の急所打ちを内部に仕込んだファールカップで防ぎ、「どうだ!」と見得を切ったり、素足でファイトしていたゆえ、かけられた4の字固めからスポッと足を抜いたりと、時に闘いぶりもユーモラスだった。
試合後も、当時の選手にしてはサービス精神の旺盛さが目立っていた。頭突きを多用する外国人には「次はヘルメットをかぶる!」。自転車が大好きだったので、「次のシリーズ開幕戦の札幌大会まで1ヵ月近くあるから、自転車で行くか!」と横浜での試合後に宣言したこともある(1968年10月6日。横浜スカイホール)。実際、自転車の件は大袈裟ではなく、トレーニングがてら、東京~静岡間を日帰りすることもあったという。リングに上がる時も、豪華なガウンではなく、祭りに出る時のようなはっぴ姿で親しみも得た。ところで、なぜ素足なのか、記者が聞いた時のことだ。豊登は言った。
「シューズにかける金がない」
これもある意味、本当のことだった。豊登は今で言う、ギャンブル中毒者だった。
賭博場には日参し、競馬、競輪、何でもござれ。力道山の披露宴の際、弟分の猪木に「抜け出して賭博場に行こうぜ」と言ったというから開いた口が塞がらない(なお、猪木は初心者で、大敗したそうだ)。そのせいでの借金も膨らんで行き、定まった住所がなくなった。あれば借金取りが押し掛けるからである。それによる失踪騒ぎも頻発した。力道山とタッグを組んだ試合で、何故か頑なにタッチをせず、リング内で戦い続けたことがあった。リングサイド1列目に、借金取りたちがつめかけていたからである。いみじくも、力道山の感懐が残っている。
「ギャンブルのない国はないかな? あれば豊登を2~3年、預けるんだが……」
力道山の後を継いで社長になった日本プロレスも、その放漫な金銭感覚のゆえ、追放された。海外修業中の猪木を誘い、彼をエースに新団体「東京プロレス」を旗揚げするも、売り上げをギャンブルにつぎ込み、団体は長くは続かなかった。その後、国際プロレスに移籍したが、1970年2月に引退した。
放っておけない「優しくて力持ち」な性格
この頃から、一攫千金を夢見た言動が増えて来た。「(戦時に活躍した)山下奉文大将のフィリピンの隠し財宝を見つけに行く」「五島列島の沖に沈む、スペイン船の金銀を引き上げたい」「天皇陛下の家庭教師だったヴァイニング夫人一族の資産を受け継ぐ権利を得た」etc……。
「まあ、そう言って、『そこで金が入るから、それまでの生活費を少し工面してくれ』ということなんだけどね(笑)」
と、懐かし気に親交を語ってくれたのは新間寿氏だ。出会いは古く、柔道をやっていた新間が上述のレスリング・センターに入門した時のことだった。柔道着を着ていると、帯に指をかけられ、そのまま持ち上げられたという。
「びっくりしたよ。バーベルもね、左右にプレートを付けすぎて、シャフトがしなってるの。それをガンガン上げてるんだから。230キロはあったんじゃないかな?」
先に触れた「東京プロレス」で同舟し、金銭面のいざこざで別れたが、少しすると、豊登が「一緒に商売をしないか」と持ち掛け、乗った。ギャンブル好きではあるが、文字通り“気は優しくて、力持ち”な豊登を、どうしても嫌いになれなかったという。自動車の燃費を上げる「ダイナパワー」という装置を売るために、全国を回った。運転の出来ない豊登は、夜になると、新間の体を指圧してくれたという。
「滅多に見せないけど、新間にはお世話になってるから、ワシの本気を見せてやろう」
と言うと、温泉で、固く絞った手ぬぐいを、左右に引っ張った。手ぬぐいは真ん中から割れるように破れたという。行商中の別府で、溝にはまって立ち往生していたライトバンを見かけた。そちらに乗車していた5人かがりでも動かせなかったのを、豊登があっさりと1人で持ち上げ、元に戻した。新間は誇らしい気持ちで一杯だったという。
だから、猪木が新日本プロレスを旗揚げする際、声をかけた。その頃は新宿区にある新間の実家である寺の近所のアパートに、住まわせてやっていた。豊登は「そもそも、もう引退してるし、恥ずかしいよ。ワシなんかが出る幕でない」と難色を示したが、自転車を買ってやると乗り始め、トレーニングの代わりになった。汗まみれとなる衣服を洗う洗濯機も買ってやった。しかし、いざ猪木と会っても、復帰自体は固辞する。新間は一計を案じた。
「トヨさん、実は今までのアパート代も自転車代も洗濯機代も、全て猪木さんが払ってくれたものなんです」
豊登は思案顔になったが、やはり復帰へは二の足を踏んでいた。
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