プロレス界ナンバー1の「怪力レスラー」は誰か…力道山に可愛がられ、猪木に恩人と呼ばれた“心優しき力持ち”…「豊登伝説」を検証する
「私の最大の恩人です!」
迎えた新日本プロレス旗揚げ当日、リング上で花束を渡した豊登は、周囲に押されるように、復帰を受諾。タイツは山本小鉄が予備のものを貸した。猪木の目には涙があった。試合後、まさかの復帰をした豊登の元に記者たちが集まると、豊登は言った。
「(猪木)寛至のためだし、テレビ中継がついて軌道に乗るまでなら……」
自身はメインには出なかったが、集客に寄与したのは確かだ。「豊登を観に来て、猪木を観て帰った」と言われると、笑顔を見せた。そして1973年の春、新日本プロレスにレギュラーのテレビ放送が決まると、人知れず姿を消した。
その名が再び聞かれたのは、1991年4月30日の新日本プロレス・両国国技館大会だった。大会名は「豊登道春激励チャリティー」。腎臓結石を罹患し、人工透析を受けていた豊登を援助するための大会で、久々に姿を見せた豊登を、坂口征二とともにロープを開けて迎え入れた猪木は、マイクで大観衆に、豊登をこう紹介した。
「(豊登)先輩は、私の最大の恩人です!」
この時、豊登は前出の菊池孝氏とも旧交を深めており、こんな会話をしたという。
「菊池さんの雑誌連載、毎週読んでるよ。とても良いね。公平で、どの選手のことも傷つけない」
「トヨさん、住所がないから、雑誌は送られて来ないんじゃないの?(笑)」
「馬鹿言え。ちゃんと買って読んでるわい(笑)」
ここから7年後、豊登は逝去。遺品はトランク1つだった。その中身を見た菊池氏は、目頭が熱くなったという。
菊池氏の連載が載る何十冊ものプロレス雑誌が、その中に入っていた。
[3/3ページ]

