「女優が自然を甘く見るな」批判を吹き飛ばし北極点へ 和泉雅子さんの壮絶な冒険を振り返る
62日かけて約590キロ進むも…勇気ある撤退
持ち前のエネルギッシュな行動力を生かして、計画を発表する前の84年11月にカナダの北極圏に飛び、現地のエスキモー人と具体的な打ち合わせもしていた。「北極点に向けて出発する前には、2ヶ月間に亘ってレゾリュートで耐寒訓練や装備の操作訓練などを行うなど“本番”に備えていた」(前出の放送関係者)という力の入れよう。
出発に際して和泉さんは、友達から贈られたという20個の「お守り」をポケットにしのばせていたそうで「やるだけやって、北極点で、もし死んでも本望よ」などと言い残したりもしていた。
この年の北極には既に米国、英国、フランスの3パーティー6人がアタックしていたが、米国の2人は断念、単独行だった英国人男性は足の凍傷で救出される事態が起こっており、和泉さんの成功も不安視されていた。
だが、和泉さん一行はブリザードとリード(氷の割れ目)が最も多いとされる“最後の難関”を突破し、現地時間で5月13日(日本時間14日未明)には、北極点まであと220キロというところまで迫った。
だが自然とは厳しいもので、
「北極点まで残り160キロという地点で、気温が急上昇、リードが多く出て危険な状態となったため、結局は『極点踏破断念』を決めざるを得ませんでした。しかし62日をかけて直線距離にして約590キロ進みました。この距離は女性の北極点踏破記録としては世界初でした。周囲からは『勇気ある撤退』と言われましたが、和泉さんとしては無念だったはずです」(前出の放送関係者)
しかし、当初の予算1億1,000万円は大幅にオーバー。2割強も超過していたという説もある。
「ホワイトアウトで停滞を余儀なくされたりして、大勢は断念に傾いていたけれども、和泉さんは納得がいかず、何度も死闘を繰り広げたようです。それで費用がかさんでしまった。周囲からは、もっと早く断念しておけば…という声もあったほどでした」。
だが、この時の屈辱があったからこそ、4年後の「極点踏破」を成し遂げることができたに違いない。とことん夢を追いかける人だった。





