「女優が自然を甘く見るな」批判を吹き飛ばし北極点へ 和泉雅子さんの壮絶な冒険を振り返る
苦闘が滲み出た姿
極点を踏破した和泉さんは、チャーター機でベースキャンプのあるレゾリュートに戻り、5月30日にカナダ太平洋航空で帰国した。
バックパッキング姿でタラップを降り立った和泉さんの髪は、だいぶ白髪まじりになっていた。顔はシミだらけで、62日間の苦闘が滲み出ていた。
極点を目指していて、一番怖かったのは「気温」だったという。
「体験した最低気温は零下43度でした。これが、いきなり零下2度まで急上昇したことです」
味わった者しか分からないような強烈な体験である。北極の様子については、
「何もないのが魅力でした。東京には何でもいっぱいあるから。本当に太陽がキレイなんですよ、北極では……」。
北極の動物にほれ込み、「アザラシや白クマ、ホッキョクギツネなどの写真を撮り続けて生きたい」と目を輝かせてもいた。
和泉さんのもとへは、大冒険についての本の執筆依頼や200件以上の講演会の申し込みが殺到したといわれる。この年の5月31日には、テレビ朝日で「感動ドキュメント和泉雅子北極点に立つ!! 大氷原征服1000キロの記録」として北極点踏破の特番が放送された。
それにしても下世話ながら気になるのが、極点踏破にかかったお金である。
「チャーター機を使って、食料や燃料を1週間~10日に1回のペースで補給していました。極点までの片道1800キロの距離を往復することになる。和泉さんによれば、8回チャーターしたようです。遠征費用の7~8割ぐらいが、このチャーター機の費用だったらしいです」(芸能関係者)
放送権料などの補完があったとはいえ、和泉さん個人だけでも数千万円の借金を抱えたのではないだろうか。
失敗に終わった最初のチャレンジ
振り返れば和泉さんの北極点チャレンジは2度目だった。
最初のチャレンジは85年1月。その時は「北極に夢中なのは、恋愛と一緒です」と語っていたように記憶する。もし、この時に成功していたら、世界で初めての女性による北極点到達となった。和泉さんも「人生の折り返し地点に当たっているので、絶対に成功させたい」などと意気込んでいた。
この時の計画も、やはりカナダ北極圏レゾリュート近くのワードハント島からの出発だった。その時の“和泉遠征隊”は、和泉さんが隊長となり、新潟県在住の山荘経営者・伊藤周左衛門さん(当時51歳)を副隊長に据えた5人編成だった。
3月31日にワードハント島を出て、スノーモービルとソリで氷原800キロを走破し、5月中旬頃にも極点に到達する計画を立てていた。和泉さんと親交のあった放送関係者は当時をこう振り返る。
「83年だったと思いますが、和泉さんは12月から2ヶ月間、テレビ東京の取材で南極探検に行ったことがあったのです。それが極地の虜になるキッカケだったと聞きました。とはいえ動機は、『南極に行ったから今度は反対側の極地に行きたい』『地球のてっぺんに立ちたくなった』ですからね。正直言って、ちょっと考えが甘いんじゃないか、できるわけないってその時は思いましたよ。ところが、いつの間にか総費用1億1,000万円という予算をかけた壮大なプロジェクト・プランになっていました。いくら和泉さんの夢とはいえ、無謀なチャレンジだと揶揄する声もあったことは事実です」
実際、専門家から批判も受けた。
「氷点下40度の寒さ、白クマの来襲の危険性。73年に犬ソリで単独北極点到達を果たした植村直己さんでさえ超人的な体力と意志を持ってやっと成功したのに、単なる憧れだけで、(当時)37歳の女優がチャレンジするものではない。大自然を甘く見過ぎている」
だがご本人は意に介さず、こんなことを言っていた。
「北極は比較的に安全です。山を登るわけではないので、転落事故もありません。現地の名ガイド、ベーセルも99・9%大丈夫と言ってくれました。残りの0・1%は、あなたの意志と言われました」。
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