「中国からスパイ活動のための工作費用をもらっている」疑惑が 台湾野党への「大リコール運動」が激化 

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そうそうたるメンバー

 松本氏は1939年東京生まれ。中央大学法学部卒業後、東京都に勤務したが、東西対立が激しくなった64年、分断されたドイツの東ベルリン入りを敢行。「自由を抑圧された社会」を見聞したのを機に、「日本は自由が保障された国であらねばならない」と強く感じて自民党本部に転職。全国組織委員会青年局に配属された。

 当時の日本は、52年サンフランシスコ講和条約で独立を回復。同年日華平和条約を結んだ中華民国・台湾と国交を樹立していた。

「私が自民党職員になった頃の首相は佐藤栄作氏でしたが、台湾との関係を重要視していました。そこへ67年7月に、中華民国からの留学生が自民党青年局を訪ねて来て、台湾と日本の若者との組織的な交流の場をつくってもらいたいという要望がありました。佐藤首相の後押しがあり、日華青年親善協会が創設され、会長が小渕恵三代議士に、私は事務局長に就任することになりました」

 当時の青年局には、海部俊樹青年局長、小渕青年部長、橋本龍太郎学生部長という後に総理となるそうそうたるメンバーがいた。このとき、台湾側の責任者が、当時国防部長(国防大臣)で中国青年反共救国団主任であった蒋経国氏だった。

「国民が一つの国を愛するかどうか」

 同年9月、総勢約50人の編成で第1次日華青年親善訪華団が訪台。事務局長の松本氏もその一員だった。ここから自民党と台湾との交流は深まっていく。

 同年11月、松本氏は公賓として来日した蒋経国国防部長と、東京都港区白金の迎賓館で初めて対面した。

「このとき蒋経国氏が語った『将来にわたって両国の友好関係を保つために、青年交流を積極的に続けてほしい』という言葉が強く印象に残っています」

 だが、中国の台頭で国際情勢は急変する。71年7月、ニクソン米大統領は、電撃的に訪中を宣言した。同年10月、中華民国は国連を脱退。72年2月、ニクソン大統領の北京訪問が実現する。

「いまにも台湾は中国に併呑されるのではないかという勢いでした。私は、居ても立ってもおられず3月に台湾に飛びました。このとき通訳官を交えて、すでに内政外交の実権を掌握していた行政院副院長(副総理)の蒋経国氏と1時間単独で会見しましたが、蒋氏の言葉はとても印象的でした。『国家の存亡というものは、外圧に左右されない。国民が一つの国を愛するかどうか、国民を一つにまとめられるかどうかだ』というのです」

「日本のためだと思って引き受けてもらいたい」

 日本も世界の潮流に乗り遅れまいとして、72年7月、中国との国交樹立を公約にしていた田中角栄氏が総理となった。台湾とは断交せざるを得ない。政府は、副総裁の椎名悦三郎氏を政府特使として派遣し、中華民国の理解を得ようとした。

 しかし、台湾は猛反発し、政府特使の受け入れを断固拒否する構えであった。ここで白羽の矢が立ったのが、当時32歳の松本氏である。

「大平正芳外相に呼ばれ、特使の受け入れ交渉を手伝ってもらいたいと言われたのです。私のような若造にそんな大役は務まりませんと固辞しましたが、『日本のためだと思って引き受けてもらいたい』と強く言われました。行政院長(総理)となっていた蒋経国氏と会ったことのある、数少ない日本人として期待されたのかもしれません」

 72年9月10日、松本氏は単身台湾に飛んだ。キーマンは、蒋介石総統の最側近である張群総統府資政と踏んだ。このとき83歳となる張資政は、辛亥革命以前、蒋総統と共に日本の陸軍予備学校に留学して以来の盟友である。

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