高畑勲と宮崎駿が競い合った「お化けと墓」 映画「火垂るの墓」ついに配信開始 1988年波乱の公開前を振り返る

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作品となると人が変わる

 高畑監督は作品に関しては妥協のない人だった。原作者の野坂氏とともに舞台となった神戸のロケハンを行い、当時の景色はもちろん、空襲したB―29はどの方向から飛んできて、落とした焼夷弾はどのように燃えるのか……などなど、徹底的に調べ尽くすのだ。スタジオジブリの鈴木敏夫氏は、そんな高畑監督について「いい作品を作ることがすべてであって、その他のことにはまったく配慮しない人」と語っている。

「鈴木さんたちが高畑さんの絵コンテを全部つなげてビデオに撮ったら、97分くらいになっていました。そもそも『トトロ』と『火垂るの墓』、それぞれ60分ずつだったはずが大幅に延びている。これじゃダメだと、かなりの量を切ったそうですが、高畑さんも作品のためだから納得しない……」

「火垂るの墓」の上映時間が延びていることを伝え聞いた宮崎監督は「こっちも延ばす」と対抗意識を燃やしたといわれる。高畑監督は作品のためなら予算についても遠慮はなかった。

「当初は確か2億円の予算でしたが、それでは足りないと、高畑さんと鈴木さんが新潮社にやってきました。それで2億7000万円になったと思います」

 製作が山場を迎える中、新潮社で上映会が行われた。

「見終えた社長が『このクオリティを下げることなく間に合わせてほしい』と言いました。実はこれ、社長にこう言われれば高畑さんも必死に完成まで取り組むだろうという鈴木さんの作戦だったのです」

 だが、作戦はうまくいかなかった。上映会に同席した鈴木氏の手記によれば、佐藤社長に対し高畑監督は「公開を延ばしてください」と答えたという。

「そうはいっても、宮崎さんの『となりのトトロ』は順調に進んでいますし、配給の東宝さんとも話がまとまっているわけですから……」

 1988年4月には、ついに公開!となるのだが……、高畑監督のこだわりが生んだ前代未聞の出来事が待ち受けていた。

【後編】では、「火垂るの墓」公開時の「幻のバージョン」と高畑監督に与えた影響について明かされる。

デイリー新潮編集部

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