高畑勲と宮崎駿が競い合った「お化けと墓」 映画「火垂るの墓」ついに配信開始 1988年波乱の公開前を振り返る

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「お化けに加えて、墓か!」

「『火垂るの墓』がテレビで放送されるのは次で15回目だそうですが、終戦の日の放送は2回目だそうです。もっとも、監督の高畑勲さんは“『火垂るの墓』は反戦映画ではない”とおっしゃっていましたね」

 当時、世は週刊マンガ誌の全盛期。集英社の「週刊少年ジャンプ」の400万部突破を横目に、新潮社もマンガ事業に乗り出そうと、先代の社長が“漫画研究会”を立ち上げていたという。柴田氏もその研究会の一員だった。

 そこに持ち込まれたのが「火垂るの墓」のアニメ映画化の話だった。

「その頃、スタジオジブリでは84年公開の『風の谷のナウシカ』がヒットし、続く86年公開の『天空の城ラピュタ』もひと区切り付いたところで、宮崎駿監督は長年温めていたトトロという“お化け”を主人公にした60分作品をやりたいとおっしゃっていたそうです。もっとも、60分の中編映画だと当時の映画館では単独公開は難しいので、もう1本、中編映画を作って、2本立てにして上映したらどうかという話になった。そこで野坂さんの『火垂るの墓』の企画を製作の徳間書店に出したそうです」

 徳間書店では「お化けに加えて墓か!」と叱責された挙げ句、企画は認められなかったという。

「そこで文庫版『火垂るの墓』の版元である新潮社に話が持ち込まれたんです。これには当時の“漫画研究会”座長が『アニメージュ』編集部の亀岡修さんと知り合いだったことが大きかったようです。亀岡さんから鈴木敏夫編集長(現・スタジオジブリ代表取締役議長)を紹介され、その縁で『火垂るの墓』の製作を勧められたんだそうです」

 新潮社の佐藤亮一社長が徳間書店の徳間康快社長(1921〜2000)に共同プロジェクトを呼びかける電話を直接かけたことで、2本のアニメ映画の計画は進み始めた。

 87年4月18日、徳間書店製作による宮崎監督「となりのトトロ」、新潮社製作による高畑監督「火垂るの墓」の2社合同の製作発表が行われた。宮崎、高畑の両監督はもちろん、徳間書店、新潮社、2社の社長も出席した。

普段は気遣いの人

「製作発表の後だったと思いますが、新潮社社員のアニメ啓蒙のため、会議室を使って『風の谷のナウシカ』の上映会を何回かやりました。徳間書店から16ミリフィルムを借りてきて、“新潮社は今度これをやるんだ”と」

 アニメ啓蒙というのが時代を感じさせるところではある。こうしていよいよ「火垂るの墓」の製作に入るのだが、すんなりとは進まない。
 
「作品がなかなか完成しなかったのです。映画は翌年4月公開と決まっているんですが、間に合いそうになかった」

 監督の高畑勲氏は“日本のアニメーションを作った男”と評される人物。しかし、製作は遅々として進まなかった。

「僕なんかがスタジオに顔を出すと、手を止めて話しかけてくださるわけですよ。当時、リメイクされた映画『ビルマの竪琴』がヒットしている頃で、戦争の話などもしてくれる気遣いの方なんです。でも、こちらは製作の一員ですから、高畑さんの手を止めさせてしまうことが忍びなくて、スタジオに行くのをやめました」

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