「メダルのため」ではなく「彼のため」に五輪へ 亡くなった円谷幸吉に捧げた君原健二の走り(小林信也)

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 1964年東京五輪、マラソンでのメダル獲得は国民の大きな願いだった。陸上競技の最終日、大観衆の待つ国立競技場にゴールする。日本選手が真っ先に戻ってくれば最高のフィナーレになる。

 当時の新聞記事をたどると、寺沢徹、君原健二、円谷幸吉のうち最も期待されていたのは23歳の君原だ。国内の大会で優勝し、上り坂の勢いを感じさせた。

 前年5月、五輪と同じコースで開かれた第18回毎日マラソンでも2時間20分24秒8の大会新で優勝した。しかし現実は、誰も予想しない明暗を描き出す。

 競技場に2番目に戻ってきたのは、半年前にマラソンを始めたばかりの円谷だった。トラック勝負でヒートリー(英)に抜かれ3位に落ちるが銅メダル。君原は8位にとどまった。

 今年84歳の君原に話を聞いた。生涯で最も印象に残るマラソンはどれかと尋ねると、君原は答えた。

「競技者生活でいちばん誇らしく思っているのは東京オリンピックです。戦後80年の歴史の中で東京オリンピックはダントツに大きなイベント。本当に日本が一つになって、待ちに待って迎えた大会です。レースは自己記録に3分30秒及ばず8番でしたが、何の悔いもありませんでした」

 そして続けた。

「レースの翌朝、私はすごく不思議な体験をしました。いつものように朝走り始めると、とっても体が軽くて、まるで雲の上を走っているようでした。東京オリンピックのいろんな重圧やしがらみから解放されたせいだったのでしょう」

 それほどの重圧を君原は全身で受け止めていた。

「私は競技をやめようと決めて会社に退部届を出し、1年間は陸上と関わらずに過ごしました」

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