「メダルのため」ではなく「彼のため」に五輪へ 亡くなった円谷幸吉に捧げた君原健二の走り(小林信也)
高地で試走
一方、円谷は銅メダル獲得で国民的ヒーローになり、次のメキシコ五輪ではさらに色のいいメダルを期待される宿命を背負った。
「円谷君とは東京五輪までの半年間、毎月合宿をして親しくなりました。円谷君とのいちばんうれしい思い出は、大会の2カ月前です。北海タイムスマラソンを走って私が2時間17分12秒で優勝。円谷君は2分38秒遅れてゴールしました。それからわずか3日後ですよ。1万メートルの記録会に出場して、円谷君が28分52秒、私は29分1秒。二人とも日本新記録だった。とってもうれしくて、競技場の近くの売店でビールを買って乾杯した」
競技に戻る気のない君原を粘り強く誘い続けたのはコーチの高橋進だ。
「恩師が私を見放さなかったんです。最初は『モルモットという気持ちで協力しなさい』と言われた」
メキシコ五輪最大の課題は高地対策。海抜2240メートルのマラソンに向けて、現地での試走を君原が担った。
「海外旅行が簡単にできる時代ではありませんから、メキシコ旅行に行けるという気持ちで引き受けました。ずっと上りを走っているような厳しさでした」
帰国すると、「小さな大会に参加しないか」と、コーチの思惑に乗せられて、再び五輪を目指す形になった。
「円谷君と最後に話したのは亡くなる半年前、広島のレースの控室でした。『メキシコで日の丸を揚げるのは国民に対する約束だ』と、円谷君はそういう言い方をしました。けれど直後にアキレス腱を切り、椎間板ヘルニアの手術後の経過もよくなかった……」
メキシコ五輪を9カ月後に控えた新年早々、〈円谷自殺〉のニュースが流れた。
「とっても悔しくて、無念でなりませんでした」
円谷の葬儀に君原とコーチの高橋は、〈メキシコで日の丸を揚げることを誓う〉と弔電を送っている。だが、それは高橋の発信。君原は、円谷を失って自分がメダルを!と決意したわけではないと言った。
「私はメキシコに対する意欲なんてちっともなかった。東京五輪で十分でした。ところがコーチに『青春時代にしかできないことをやろう』と燃えるように熱く説得されて続けた。私はメダルなんて思って走ったわけじゃない。でも、メキシコ五輪のスタートラインに立った時ふと、このレースを走りたかった円谷君のために走ろうと思った」
沿道から「ドス」
その日は朝から下痢気味でレース中も腹痛に見舞われた。トップ集団に離され、一時は9番手。そこから少しずつ順位を上げる。
「走っていると沿道から『トレス』と声がかかった。3番? まさか、信じられなかった。前から選手が落ちてきて私が抜くと、今度は『ドス』と聞こえた。本当に2番なのか? そんな感じでした」
君原は4年前の円谷と同じく、2番目で大観衆の待つ競技場に戻った。
「その時、天から円谷君のインスピレーションが伝わってきたような感じで、いつもは決して後ろを見ないのに、思わず振り返るとすぐ後ろに3位の選手がいた。私は『絶対に後ろの選手に抜かれるもんか』と夢中でゴールに駆け込みました」
君原は、4年前円谷が取り損ねた銀メダルをメキシコで手中に収めた。あえぎあえぎ、夢遊病のように首を激しく左右に振って走る君原の姿は、鮮明に記憶に刻まれている。
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