心肺停止から蘇った「馳浩」石川県知事が抱く「私は死ぬまでプロレスラー」の矜持 生きている喜びを伝えられるのがプロレス
「私は死ぬまでプロレスラー」
馳がここまで拘るのは、三沢と一騎打ちしたことがあるからかもしれない(2000年1月9日)。前出の全日本プロレスへの移籍から4年経っており、既に川田利明(61)、田上明(64)、小橋建太(58)、秋山準(55)とはシングルを終えていた。遂に辿りついた全日本プロレスの象徴との一戦だった。試合前、三沢は「よく練習している。プロレスが好きなんだね」と馳を評価していた。
一方の馳は、「プロレスというものが何なのか、確認してみたい」と語った。思索的な境地に至っていたわけではない。実は2日前(現地時間)、日本でも人気のあったゲーリー・オブライトがアメリカで試合中に急死していたのだ(享年36)。馳とオブライトは同じ人物(ミスター・ヒト)に師事しており、「兄弟弟子のような感覚」(馳)だったという。また、この日の会場は偶然、10年前、自らが生死を彷徨った福岡国際センターだった。入場時、花道の途中で、そっと十字を切る馳の姿が見られた。
試合は三沢の右腕を、馳があらゆる手法で痛めつける展開に。三沢のエルボーを封じるためだったが、試合の9割を攻めていたと言って過言ではなかった。だが、最後は、滅多に見られない左のエルボーの連発から右のエルボーで三沢がフォール勝ち。控え室に帰ると、腹心の小川良成(58)が言った。「(技を)受け過ぎじゃないですか?」三沢は報道陣に、こうコメントを残している。
「どれだけやるのかな、と。好きなだけやらせてみたというか、受けてみた。しつこいよね。あそこまでやられると。(彼の)女性に対するしつこさと同じなんじゃない?(笑)」
対して馳は、こう述べた。
「三沢の“愛”を感じたよ。おかげで俺も、改めて懐深くなれたと思う。プロレスって何だっていう、答えはまだ出ないけれど」
それから15年、政界での活躍が認められ、文部科学大臣に就任した馳は、その席で東京五輪を見越し、こう語っている(2015年10月8日)。
「スポーツでは強くなろうとだけ思っていてはいけないと思うんですよ。(中略)10人いれば1人しか勝者はおりません。9人は敗者となります。その敗者の気持ちも理解出来るような、幅のある人間性が必要だと思っています」……。
2020年には、超党派の「格闘技振興議員連盟総会」を結成し、やはり健康管理の重要性や補償について、訴えている。レスラーの安全への各施策など、馳の提案が完全に実現するまでまだ時間がかかりそうだが、上述の最新試合直後の記者会見では、こんなやり取りがあった(2023年1月4日。抜粋)。
記者「今、現時点でも、プロレスラーというような感覚でいらっしゃるのか」
馳「職業としてのプロレスラーは引退しましたが、私は死ぬまでプロレスラーであります」
それは、敵を友に変えられる、得難い生き方への自負ではなかったか。
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