心肺停止から蘇った「馳浩」石川県知事が抱く「私は死ぬまでプロレスラー」の矜持 生きている喜びを伝えられるのがプロレス
プロレスで学んだことを政治の場に
1995年、高見と二人三脚かつ愚直に選挙を戦い抜き、石川選挙区から参議院議員に初当選。「国民の代表にふさわしいとは思えない」と、自らトレードマークの髭をあっさりと剃り落とした。翌96年1月4日の東京ドーム大会では、「引退試合」と銘打って、健介とのシングルが組まれた。ところが惜敗後、馳は毅然として、こう口にした。
「引退は会社が言ってるだけ。情熱で政界に飛び込んだけれど、自分のその気持ちを支えてくれたのはプロレスなんですよ」
翌年、ライバルの全日本プロレスのリングにプロレスラーとして上がり続ける馳の姿が見られた。2000年に衆議院議員選挙に出馬すると健介はもちろん、橋本真也、蝶野正洋(61)、果ては全日本プロレス所属の高山善廣(58)、大森隆男(55)まで駆け付け、団体の垣根を越えて馳を応援。見事に当選した。そして、新日本プロレスが決めた引退試合から10年経った2006年88月27日、馳は自ら宣言し、引退試合をする。それでも試合後、「引退宣言なんて、するんじゃなかったと思ってるよ(笑)」と、未練はたっぷりだった。
「ただ、国政に責任を持って出させて頂いている以上、しっかりやれという声をヒシヒシと感じるんです。自分のワガママばっかり言っちゃいかんと」
そして、政務に邁進する中、プロレスラーを続けてこられた理由を、こう語った。
「プロレスが大好きだし、1人でも多くの人にその素晴らしさを伝えたかった。それが俺の生きがいだったから。プロレスで学んだこと、志したことを、政界でも忘れず、頑張って行きます」
2015年には第三次安部内閣において、文部科学大臣を拝命。そして2022年には、石川県知事に就任したのは周知の通りだ。23年2月24日の県議会で、その馳に、県議から、こんな要請があった。
「命にかかわる重大なことが起きる可能性は否定出来ず、そうなれば県政の停滞を招くのは必至。二度とリングに上がらないで欲しい」
実は馳は2006年の引退以降も、断続的にリングに登場していた。もちろん公務が最優先で、国会議員時代、リングに上がるのは国会がない時期と自分で決めており(※例外はあり)、練習も、衆院第1議員会館の裏手にある衆院健康センターを中心に、朝5時から7時、もしくは夜9時以降としていた。
そして、23年の1月1日には、元旦という休暇を利用し、史上初の県知事レスラーとして、NOAHの日本武道館大会のリングに上がっていたのである。要請した県議は、馳とは同じ自民会派のそれであり、純粋に心配する気持ちを含んだ発言でもあった。これに対し、馳はこう答弁した。
「ご指摘を真摯に受け止め、適切に対処する」
政務とプロレスをしっかり分けていた馳。実は、その2つが悲しくリンクした出来事が、2009年にあったのである。
2009年6月18日。新日本プロレス、全日本プロレス、NOAHという、メジャー3団体の関係者が、馳の呼びかけで自民党本部に集められた。議題は、以下だった。
〈格闘技興行における事故死について〉
5日前の6月13日、NOAHのエース・三沢光晴が、試合中に相手のバックドロップにより、意識不明に。そのまま意識が戻らず、急逝していた(死因は頸椎離断)。この試合の放送はお蔵入りになったが、前田日明(66)を始め、何人かの関係者は試合の映像を視認しており、馳もその1人で、こう語っている。
〈彼(三沢)は受け身には失敗していないんです。厳しい角度で落ちてはいたけれども、あれ以上の角度で落ちることはよくありますから。そういう意味では、蓄積された『金属疲労』が限界に達したのかなと思わざるを得ない。(中略)(自分の怪我は、)原因ははっきりしていて、自分の技術の未熟さでした。 でも三沢選手の場合はどの選手にもおこりうる『事故死』なんです〉(『週刊朝日』2009年7月3日号)
馳はこの時、3団体にいくつかの提案を出した。選手の日常の健康管理、興行における選手の管理、プロレスラーとしてのライセンスの発行etc.。
2020年4月、コロナ禍において、プロレス界が超党派で衆院の馳議員に休業中の補償も含めた要望書を提出した時も、馳自身は、むしろこの選手の体調管理問題にひたむきさを見せていた。棚橋弘至(48=新日本プロレス)、諏訪魔(48=全日本プロレス)を相手に、衆議院第1議員会館にて、所望する監査機能を述べている。
〈危険な職業だけどトレーニングして、それを判定する会社、コーチの判断があって試合に出る(という体制)〉(『週刊プロレス』2020年5月13日号)
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