心肺停止から蘇った「馳浩」石川県知事が抱く「私は死ぬまでプロレスラー」の矜持 生きている喜びを伝えられるのがプロレス
「あそこから馳は変わった」
福岡スポーツセンター大会、第3試合の88人タッグマッチで、後藤達俊(69)にバックドロップを仕掛けられた。馳はその際、反転して後藤を押しつぶそうとしたが間に合わず、側頭部から落下したのである。少々驚くのだが、倒れたのはそれから4試合を挟んだ8試合目。ビッグバン・ベイダー(享年63)と闘うスタン・ハンセン(75)のセコンドにつくため、その入場に後続していた時だった。
馳の後ろについていた佐々木健介(58)の視界から、突然、馳が消えたのである。
見ると、馳が倒れている。意識を失い、青ざめ、顔面が痙攣。目はあらぬ方を向いている。(まずい!)と思った健介は、馳の口に指を突っ込んだ。体の激しいビクつきにより、馳が舌を自動的に噛んでしまうのを防ぐためだ。
口内からどんどん血が流れて来た。無意識に馳が噛んだ、健介の指から出た血だったのだが、これは馳が危険な状態にあることを物語っていた。控室に戻され、意識不明の馳に長州が、「死ぬな! 馳!」と叫び、号泣する。常駐していたリングドクターによれば、この時、馳の心臓は完全に停止していたという。人工呼吸や心臓マッサージなどの応急処置を続け、数分後、心臓の鼓動と自発呼吸が復活し、ことなきを得た。紛れもなく、迅速な対応の賜物だった。
「あそこから馳は変わった」と、盟友・健介は語る。
「それまでは厳しく自分に練習を課していた毎日でした。それが、あの日を境に、自分から飲みや食事に誘うようになったんです」
「一度は死んだ身。だったら人生を楽しもうと」
かつて筆者がインタビューした馳は、当時をこう振り返った。
「もう、思い切って自分を出して行こうと。自分が生きている喜びを感じ、そして伝えて行く。プロレスは、それを表現するのに合っていたと言って良いでしょう」
黒一色だったコスチュームからイエローのコスチュームに変えた。入場時はコーナーポストに上がって、客席に脱いだTシャツを投げ入れた。明るさを振りまくスタンスから付いた異名は、「闘う愛の伝道師」。その反面、グレート・ムタとは今見ても震撼するほどの流血量での死闘を展開し、最後は持ち込まれた担架の上でムーンサルトを食らうというオマケ付き(1990年9月14日)。ムタ人気がブレイクした一戦として知られるが、同時に血まみれになりながらムタの奔放な悪役ファイトを引き出した馳も、一気に注目株になった。
自身の基底である実直なテクニシャンぶりが覗くこともあった。1994年6月、武藤敬司と40分を超えるグラウンド戦を展開。技術の攻防は素晴らしかったが、日本武道館大会のセミファイナルでそれをおこなう是非も問われたのだが、この試合を観戦していた馳の家人はこう言った。
「今日は、輝いてなかったね。プロレスラーとしてのあなたに、普段の生真面目さは必要ないんじゃない?」
この家人とは、同年に結婚した高見恭子だった。
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