戦後GHQに招かれた凄腕の「旧日本軍参謀」 朝鮮戦争の“特需”に沸く日本を「危なっかしくて見ておれなかった」理由とは
朝鮮戦争の「特需」に沸いた日本
戦後の冷戦時代に入っていた1950年6月25日、朝鮮半島の38度線で朝鮮戦争が勃発した。“北朝鮮による韓国への侵攻”という構図ではあるが、それぞれソ連を中心とした東側諸国、米国を中心とした西側諸国の支援を受けた、代表的な米ソ代理戦争のひとつである。1953年7月27日に休戦協定が締結され、1989年の冷戦終結を挟んでもなお、いまだ両国は「休戦中」だ。
朝鮮戦争が勃発した当時、日本はGHQの占領下。戦後の混乱期から復興期に移行する契機として、朝鮮戦争による「朝鮮特需」は大きな役割を果たした。米軍の在日司令部が繊維製品や建材、食料品等を買い付けた額は総額10億ドル、間接特需は36億ドルにのぼるともいわれる。
戦後初の好景気だけに、日本は沸きに沸いた。だが企業が事業を拡大するにおいて、この好景気はいつまで続くのか……と考えるのは当然。そこで質問が殺到した人物がいる。元・大本営陸軍参謀(少佐)、関東軍でソ連の軍事分析を行っていた完倉寿郎(ししくら・じゅろう)氏だ。
朝鮮戦争当時の完倉氏は、ブレーンとしてGHQに呼ばれていた旧日本軍参謀のひとりだった。それから20年後、「週刊新潮」の誌上で当時を振り返った完倉氏が「商売も戦と同じ」と語った理由とは――。
(「週刊新潮」1971年1月9日号「GHQから朝鮮戦争を見た元大本営参謀」を再編集しました。文中の年齢、肩書等は掲載当時のものです)
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GHQに集められた旧日本陸海軍の参謀たち
昭和25年6月25日、38度線で戦闘開始。
8月~9月、米・韓軍、釜山まで追いつめられる。
9月、米軍仁川(インチョン)上陸。
10月、中共軍介入。
昭和26年7月、休戦会談開始。
それから2年後に休戦協定調印。
日本人にとっては寝耳に水の動乱勃発だったが、これを十分に予測し、かつ、当時の日本占領軍(GHQ)に進言していた旧日本軍参謀のグループがあった。
GHQの参謀第二部(GII=諜報・治安担当)の長、チャールス・ウィロビー少将は反共で有名だが、少将は当時郵船ビル内「戦史編纂(へんさん)室」を作り、そこに旧日本陸海軍の参謀を中心に、約50人の日本人将校を集めていた。
「戦史編纂」は表向きで、実は対ソ、対北朝鮮の戦略を練るブレーン・スタッフだったのである。服部卓四郎、有末精三といった人々の名は知られているが、その他の多くは今でもその“経験”を公にしたがらない。
「やはり日本軍人として、昨日までの敵国である米軍に協力したことへのうしろめたさがあるからですよ」と、その1人、完倉寿郎氏(57)はいう。
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