「ジャニー氏が唯一褒めた曲はSMAPの…」 伝説の名曲たちを生んだプロデューサーが明かす衝撃秘話 直後に「これ以上の曲、絶対に作れないから」とクビ宣告

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良い楽曲を手に入れるために海外へ

 自信満々にこう言えるのは、ヒット曲を多数送り出した実績がある上に、さらなるヒット曲を生み出そうと、日々、自らに“負荷”をかけて研鑽を積んでいたから。

「僕は365日、休むことなく、かっこいい曲を求めて世界中の音楽を聴き続けていました。年に6000曲は聴いてましたよ。これを上回ることをやっているやつは誰もいませんでした」

 さらに、良い楽曲を手に入れるために海外へ手を広げ、新たな供給ルートを開拓した。

「スウェーデンの作曲家を集めて、売れる楽曲を作るノウハウ、コツを伝授しました。実際にシングル曲にもなっています。いい曲を作るために、ここまでやっていたやつも他にいませんから」

開拓したスウェーデンルートから生まれた大ヒット曲とK-POPへの影響

 このスウェーデンチームが加わって生まれた曲の一つが、160万枚以上売れた修二と彰(亀梨和也と山下智久)の「青春アミーゴ」(2005年)である。

 スウェーデンは、ABBAなど世界的にヒットしたポップミュージシャンを生み出した地であり、渋谷系の流れから日本で大ヒットしたカーディガンズ、そのプロデューサーであり数々の日本人アーティストを手がけたトーレ・ヨハンソンの出身地でもある。90年代末からはマックス・マーティンという作曲家が全米チャート1位の曲を世に出し続けている。

 スウェーデンは良質なメロディーメーカーを生み出す地で、かの地特有のどこか憂いがあるメロディーは実に日本人好み。鎌田氏はそこに目をつけた。世界的なK-POPの成功の裏にも、鎌田氏が立ち上げたスウェーデンチームの作家の名前があるという。

平成初期に低迷したジャニーズ 救ったのはSMAP

 ジャニーズがただの“見た目のいい”集団に終わらず、歌手としても人気を得られたのは、こうした裏方の努力によって良曲を多く抱えられたからなのだ。

 ところで、ジャニー氏の性加害問題が発覚するまで、長く黄金時代を築いていたジャニーズ事務所だが、実は平成初期に著しく低迷していたことがあった。少年隊、光GENJIに続くブレイクアイドルが生まれなかったのだ。その流れを大きく変えたのがSMAPだ。SMAPのブレイクとともにジャニーズも大復活を遂げる。

 前編【ジャニー氏から「3カ月でクビになると思う」と言われ… 伝説の名曲を生んだ鎌田俊哉氏が明かす「仮面舞踏会」制作のウラ側】では、矢沢永吉と初めて会った際の忘れられないエピソードなどについて語ってもらっている。

 また、6月26日発売の「週刊新潮」では、鎌田氏がSMAP成功の裏側について語りつくしている。

鎌田俊哉(かまだとしや)
音楽プロデューサー。東京都出身。1980年にバンド「パーティ」でデビュー。解散後はプロデューサーとしてジャニーズなどを手がける。アナログ・レコード「4th Wave Record Factory」主宰・プロデューサー。

華川富士也(かがわふじや)
ライター、構成作家、フォトグラファー。1970年生まれ。長く勤めた新聞社を退社し1年間子育てに専念。現在はフリーで活動。アイドル、洋楽、邦楽、建築、旅、町、昭和ネタなどを得意とする。シリーズ累計200万部以上売れた大ヒット書籍に立ち上げから関わりライターも務めた。

週刊新潮

特別読物「少年隊『仮面舞踏会』はお蔵入り寸前だった…音楽プロデューサー鎌田俊哉氏が明かす“ジャニーズ名曲秘話”」より

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