「美空ひばり」死去で米国工場まで稼働させたレコード会社、葬儀中継は“争奪戦”…ファンも「金に糸目はつけない」大フィーバーの裏側
第1回【芸能と無縁の記者が押し寄せて会見混乱…「美空ひばり死去」大報道の舞台裏 “一面トップ”をめぐる大手紙の事情】を読む
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レコード店も慌てた「ひばりフィーバー」
新聞・雑誌を開けば追悼記事、テレビをつければ往年の映像、町を歩けば流れる歌声……。「美空ひばり逝く」のニュースが流れた1989年6月24日から、日本に起こった空前の「ひばりフィーバー」。「週刊新潮」(1989年7月13日号)は、当時の勢いをこう伝えている。
「今や『ひばりフィーバー』は、わが国芸能史上空前のものになりそうなのである。とくに、レコード、CD、カセット類の売れ行きときたら爆発的で、レコード屋のほうが慌てふためいているほどだ」
フィーバーの波は同年7月22日の葬儀までに衰えるどころか、むしろ日ごとに大きくなっていった。「ひばり死去」大報道の舞台裏を明かした第1回に続き、今回はフィーバーの知られざる裏側にお届けしよう。実のところレコード店には、死去前から「ひばり特別注文書」なるものが出回っていたという――。
(全2回の第1回:引用部分はすべて「週刊新潮」1989年7月13日号「『美空ひばり』が死んで芸能興行界の『明暗』」より。人名、肩書き、年齢は掲載当時のものです。文中一部敬称略)
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ひそかに作られた“ひばり特別注文書”
訃報とともに幕を開けた「ひばりフィーバー」。当時の「週刊新潮」はまず、東京・板橋区の中堅レコード店に話を聞いた。店主はひばり関連商品を「もっと仕入れておけばよかった」と悔しがる。
〈「今ではもう、問屋にもメーカーにも在庫がなくて追加仕入れができないんです。実を言うと、ひばりさんが死ぬ半月ぐらい前に、卸のセールスマンがひそかに“ひばり特別注文書”を作って、“万一に備えて在庫を増やしておくように”とうちあたりにも勧めに来たんですよ。どうも具合が悪いらしい、と言って特別注文を取って歩いていたんですね。そんとき、ガバッと仕入れておけばよかったんだけど、どのくらい容体が悪いのかがはっきりしなくて、“それは会社の上層部でないと分からん”という話だったんですよ」〉
江東区のレコード店も「40代、50代の主婦中心に、金に糸目はつけない感じになってきました」と証言しているが、数軒の大型店には在庫があったようだ。その中の1つ、山野楽器店(東京・銀座)の「ひばりコーナー」責任者はこう語る。
「うちとしては、ひばりさんがこうなるのを予測して余分に仕入れたわけじゃないんですよ。たまたま、6月21日に『美空ひばり 感動この一曲』という新譜が出たとき、それを記念して“ひばりもの”を売ろうと沢山用意しておいたんです。それに、(死去後は)メーカーさんも非常事態の増産態勢に入っていて、それがうちには徐々に入荷していますからね」
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