芸能と無縁の記者が押し寄せて会見混乱…「美空ひばり死去」大報道の舞台裏 “一面トップ”をめぐる大手紙の事情

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 1989年6月24日未明、美空ひばりさんが死去した。享年52。一時代を築いた歌手の訃報に、日本はたちまち大騒ぎとなる。東京都目黒区の自宅前に押し寄せた報道陣や、一面トップで報じた朝刊、テレビ・ラジオの追悼番組など、36年前の“大報道”ぶりを覚えている向きは多いだろう。

 それまでの一般紙が一面トップで伝えた訃報といえば、昭和天皇や元首相の大平正芳氏。そこに「女王・美空ひばり」が加わったことは様々な議論を呼んだ。今回はこの大報道の舞台裏、報道現場の混乱ぶりを当時の「週刊新潮」で振り返る。

(全2回の第1回:引用部分はすべて「週刊新潮」1989年7月9日号「芸能紙が唖然とした『美空ひばり』死去大報道『異聞』」より。人名、肩書き、年齢は掲載当時のものです。文中一部敬称略)

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報道関係者は200人、周囲は大混乱

 まずは目黒の「ひばり御殿」前の様子。あるフリーの芸能記者は「週刊新潮」に対し、現場の混乱ぶりを明かしている。24日午前2時ごろに「ひばりが死んだらしい」と聞き、雨の中どうにかタクシーを捕まえ、現場に着いたのは午前3時に近い時刻だった。

〈「すでに毎日新聞などは着いていて、玄関にでっかい脚立を立てて、その上に記者が座っていました。ほぼ私と同時にTBSが着き、読売新聞がその後に来ました。報道関係者は、最終的には200人くらいになりましたが、現場はもう大混乱でしたよ。(中略)家の向かいは大使館なんですが、その塀によじ登っている者もいたし、狭い中で押し合いへし合いしていたので、カメラマン同士の喧嘩もあちこちで起こっていました」〉

 芸能とは無縁の社会部記者も多く、朝5時から始まった記者会見は大混乱となる。

〈「最期を看取ったのは?」「和也です」「和也さんって?」「息子です」「えっ、息子さんがいらしたんですか!」「養子縁組をしました」「和也さんのご職業は?」「副社長です」「お勤め先は?」「ひばりのプロダクションです」「その名前は?」といった調子で、説明にあたったコロムビアの担当者もあきれ果てていたという。〉

3月末頃から本腰を入れていた毎日新聞

 各新聞社の内部でも大騒ぎとなり、死去を一面トップで毎日・読売・東京、まったく触れなかった朝日・産経・日経などに分かれた。現場に真っ先に到着していたという毎日新聞は、学芸部長の加藤順一氏(当時)が「ひばり死去報道」の経緯をこう明かしている。

〈「専従班を組んだわけではありませんが、学芸部の記者を3人、通常の仕事の合間にひばりさんに関する情報を集めさせていました。ひばりさん死亡の第一報が噂として入ったのは、当日の0時30分に非常に近い時間です」〉

〈「ひばりさんの病状については、今年の初めごろから気にかけていたのですが、特に注目しだしたのは、済生会福岡総合病院から順天堂大学病院に転院した3月。21日には、ラジオにも出演したわけですが、すぐまた再入院。これで、おかしいと思い、本腰を入れてマークしだしたのです」〉

 読売新聞の担当デスク、田中敏樹氏(当時)によると、第一報が入ったのは0時30分すぎのこと。

〈「ひばり担当の芸能記者から、“ひばりが死んだようだ”という電話がありました。その時点では確定的ではなかったので、“裏を取ってくれ”と指示を出し、記者2人を病院に走らせました。ところが、病院側は固く口を閉ざし、その裏取りがなかなかできない。時刻は一時半に近づいていく。やきもきするばかりでした」〉

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