白昼の路上で6人を殺傷し、人質女性の背中を何度も包丁で傷つけ…身勝手極まりない殺人鬼「川俣軍司」が“ブリーフ姿”で連行された意外な理由
取り調べでの不遜な態度
「立てこもり事件では、外での勝負(逮捕)はせず、必ず屋内に突入して被疑者を確保すること。突入後、真っ先に注意を払うのは、被疑者が所持している凶器。それがどこにあるかを確認する――これらを確実に実行するため、偵察を怠らず現場状況を把握し、説得工作と並行して、同じ間取りで突入の訓練をする……立てこもり事件対処への基本ですが、こうした方針はすべて捜査経験に基づいて確立されたものです。この事件でも、後に様々な検証や検討が行われ、後の捜査に行かされているのです」(警視庁OB)
逮捕後の調べで川俣は、
「就職を断られたすし屋に復讐したかった。子供を持っている人が羨ましくて、最初に通りかかった母子をとっさに刺した。気の毒とは思わない。死んだ人間はこれも運命だ。俺は侍だ。侍に殺されたのなら幸せだ。刺した時、気分がスッとした」
などと供述した。川俣の調べを担当したのは、動員された捜査第1課殺人犯捜査第6係長の平田富彦警部である。実は、初めての捜1勤務。それも殺人担当係の係長。重責だが、係長自ら取り調べに当たれと下命したのは清野1課長だった。平田はこう証言している。
「最初、奴はふてぶてしい態度だった。“カツ丼を食わせろ。さもなくば死んでやる”と毒づき、私の顔に湯飲みのお茶をかけました。私はニコッと笑って“そうか、死ね”と言った。予想外の反応に川俣の態度がかわりました」(前出「週刊新潮」)
平田の作戦だった。それまでも、調べの中で自分が殺した男児を「刺したとき、俺と目が合った。いい目をしていた」とか「俺は武士だ。武士は食わねど爪楊枝だ(注・正しくは高楊枝)」などと、全く反省の色がない。平田は剣道の有段者である。稽古で鍛えた大音声を上げた。
「私は間髪を入れず“死ねー、この野郎”と怒鳴った。すると奴は姿勢を正し、以後、素直に調べに応じたのです。弱い者に強く、強い者には弱いタイプの典型でした」(同)
川俣は覚せい剤の常用者だった。覚せい剤使用による幻覚症状下で行われたのであれば心神喪失で無罪になる可能性があったが、事件の前年までは使用していたものの、出所後は購入していないことが捜査で証明された。精神鑑定結果などから57年12月の東京地裁判決では犯行時の心神耗弱下の犯行とされ、無期懲役となった。
判決を伝える同年12月23日付の朝日新聞には、こうある。
〈東京・小菅の東京拘置所独房にいる川俣に、家族の面会は皆無。事件後、兄弟たちは川俣姓を変えているという〉
【第1回は「幼児と主婦だけを狙って6人殺傷…深川通り魔事件『川俣軍司』と警視庁『捜査1課特殊班』の息詰まる攻防」白昼の惨劇に対峙した警視庁捜査1課】




