自民党議員の「歴史書き換え」発言が物議 “ひめゆり学徒隊”の生存者が本当に伝えたかったこと(古市憲寿)

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 自民党の西田昌司参院議員の「ひめゆり」に対する発言が話題になった。発端は5月3日に那覇市で開かれたシンポジウム。西田議員は戦後の教育が間違いだったとの認識を示した上で、「ひめゆりの塔に何十年か前にお参りに行った」という話を始める。「あそこ、今はどうか知りませんけど、ひどいですね」「歴史を書き換えられる」と発言、日本軍が入ってきてひめゆりの部隊が犠牲になり、アメリカ軍によって沖縄が解放された、などといった歴史観を問題にした。この西田発言は大炎上し、撤回と謝罪に追い込まれる。

 僕が驚いたのは、AIが何でも教えてくれる時代に、こんな軽薄な歴史観を持つ馬鹿がまだ自民党の国会議員にいたということだ。

「ひめゆりの塔」の物語は、石野径一郎が小説化(ただし取材を欠いたフィクション)、その戯曲化や映画化によって全国的に広まっていった。特に、(沖縄ではなく)千葉の海岸などで撮影された映画は動員数600万人を超える空前の大ヒットとなる。1957年に佐賀県で開催された産業観光大博覧会では、ひめゆりの塔の実物大のレプリカや、戦跡地で拾われた石や砂までが「戦死の土」として公開されたという。

 ひめゆりの塔には全国から観光客がひっきりなしに訪れるようになった。塔には装飾が施され、花売りの少女が溢れた。バスガイドは哀調を帯びた声で犠牲者の悲劇を伝えた。ひめゆりはいつしか殉国美談の場所として定着していった。

 こうした「物語」に違和感を抱いたのが、当のひめゆり生存者たちである。1989年にひめゆり平和祈念資料館が開館した。展示説明は最小限に抑えられ、主に証言員が解説をするスタイルとなった。だが高齢化により従来のスタイルが難しくなってきたので、2004年に全面リニューアルされた。西田議員はこの頃、「後援会の旅行会」で資料館を訪れたようだ。

 だが当時のガイドブックなどを確認する限り、西田議員が問題としたような「歴史の書き換え」は見当たらない。そもそも「美談」に抗するために生まれた資料館なのだ。あくまでも中心は女学生たちの証言。特に第四展示室には生徒の写真が並び、「彼女はクロールがうまかった」といった何気ないプロフィールが書かれていた。当時、社会学者の濱野智史さんは、「ひめゆり部隊の『mixiコミュニティ』にでも迷い込んだような感覚」だったと率直な感想を書いている。

 資料館は2021年に再び展示改装を実施、カラフルなイラストや写真によって、より当時の女学生の生活をイメージしやすくなった。もちろん根底には、沖縄戦への強い怒りと悲しみを感じるが、西田議員が主張するような歴史観が開陳される場所ではない。彼は件のシンポジウムで、自分の頭で考えることの重要さを語っていた。だが「何十年か前」のうろ覚えの記憶で、簡単にひめゆりを「ひどい」と言ってしまう人間は、自分の頭で考えるよりAIを使った方がはるかにいい。

古市憲寿(ふるいち・のりとし)
1985(昭和60)年東京都生まれ。社会学者。慶應義塾大学SFC研究所上席所員。日本学術振興会「育志賞」受賞。若者の生態を的確に描出した『絶望の国の幸福な若者たち』で注目され、メディアでも活躍。他の著書に『誰の味方でもありません』『平成くん、さようなら』『絶対に挫折しない日本史』など。

週刊新潮 2025年6月12日号掲載

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