ハンギョドン、バッドばつ丸の“生みの親”が語る「サンリオは日本一の会社、だけど…」 デザイナーが自分の作ったキャラを描けない“キャラクター大国”の裏事情
ハンギョドンはサンリオだから生まれた
井上氏は、サンリオでの当初の役職はデザイナーではなく、ステーショナリーなどの企画立案を手掛けるプランナーであった。そんな立場の社員がなぜキャラクターデザインに関わり、誰もが知る人気キャラクターを生み出せたのだろうか。そこには、井上氏が“クリエイターの楽園”と語る、同社の企業風土が影響しているのは間違いない。
「僕はフリーになってからもたくさんのキャラクターを作ってきたけれど、人気が出るかどうかは、世に出してみないとわからない。断言するけれど、ヒットの法則のようなものはないんです。サンリオが数々のヒットを生み出せた理由は、ひとえにチャレンジングな社風があったからだと思います。少なくとも僕がいた頃には、そうした空気感が社内に流れていたんですよ。また、サンリオの機関紙“いちご新聞”を通して作者として扱われていましたから、やりがいもありました」
井上氏は多摩美術大学でグラフィックデザインを学んだ経歴をもち、入社3年目くらいになると、プランナーでありながらレターセットなどのデザインを手掛けるようになっていた。「“やってみたい”と提案すると、“やってみたら”と言われることが多かった」そうで、「これがすごく僕には良かった」と振り返る。こうした社風がハンギョドンの誕生に繋がったのである。
「ハンギョドンは、夏に向けて新しいキャラクターと商品を考える中で生まれました。白熊やカモメなどいろんな海にちなんだイメージを考えたけれど、それまでのサンリオのキャラクターは、キティ、キキ&ララ、マイメロディ……など“いい子”ばっかりで、男の僕としては物足りなかった。あと、目が点で、鼻や口が無いデザインが多かったのです。
そこで、僕が提案したのは、既存のサンリオのキャラクターとは真逆のイメージのキャラクターでした。目や口が大きく強調されたハンギョドンのデザインは、社内でも驚きの声が上がりましたよ。でも、最終的には“このキャラクターでいこう”と、GOサインが出た。本当に嬉しかったですね」
こうして、1985年に生まれたハンギョドンは大ヒットし、人気キャラクターの仲間入りを果たす。井上氏が言うような、デザイナーが自由に挑戦できる社風は、かつて世界を席巻した日本の家電メーカーなどにあった企業風土そのものだ。サンリオも“クリエイターの楽園”といえる自由な環境のもと、世界に羽ばたくキャラクターが生み出されていたのがわかる。井上氏はこうも話す。
「サンリオの歴史をさかのぼってみると、発表してグッズも出したけれど、ヒットしなかったキャラクターはたくさんあるのです。でも、仮に失敗しても、キャラクターデザイナーの責任問題にならなかった。もっとも、主任クラスは怒られていたかもしれないけれど(笑)、とにかくキャラクターの生みの親が怒られるようなことはなかったんですよ。こんないい会社って他にないでしょう。最高ですよ」
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