「軍が銃撃した」との一報に駆け付けると、黒焦げになった兵士の遺体が…「天安門事件」36年 現場で取材した日本人記者の証言
6月4日は天安門事件の36周年に当たる。当時、筆者は産経新聞の北京特派員として、事件のほぼ50日前から北京入りし取材。事件当日も、未明から天安門広場やその周辺で、軍による攻撃で多数の学生や市民が死傷するなどの動きをつぶさに目撃した。以下はその体験記である。
【相馬勝/ジャーナリスト】
【前後編の前編】
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急遽、北京行き
筆者が北京に入ったのは1989年4月17日だった。この前々日の15日には、学生らの民主化運動に理解があった胡耀邦・前中国共産党総書記が心臓や血管の疾患などで死亡。16日には胡氏の死を悼んで数万もの学生が集まり、天安門広場の人民英雄記念碑に花輪や花束、垂れ幕、黒い布を捧げるなど、動きがあわただしくなったため、産経新聞本社編集局長や外信部長らの判断で、急遽、北京行きが決まったのだ。
当時、産経新聞は北京など中国本土には支局がなかったが、筆者を含めて5人の記者には5月15日から18日までのゴルバチョフソ連共産党書記長(当時)の中国公式訪問に合わせて、中国外務省からその前後、中国滞在3か月間有効の取材ビザを発行されており、いつでも北京特派員として取材できる態勢にあった。まずは5人の中で33歳と最も若かった筆者が北京に先に入ることになったのだ。
筆者が北京入りした17日午後には北京大学や中国人民大学などの学生1000人が胡耀邦を弔うため大学から広場まで徒歩でデモを行った。翌18日未明には北京大学の学生指導者、王丹らを先頭に学生2000人あまりが「専制反対」「独裁反対」「特権階級打倒」「自由万歳」などと叫ぶとともに、中国国歌「義勇軍行進曲」、労働者の歌「インターナショナル」を歌いながら広場まで進んでいった。筆者も彼らと一緒に広場までデモについていった。
保守派が主導権を握る
学生デモは当初、「胡耀邦追悼」が最大の目的だったが、徐々にトウ小平ら一部の中国共産党最高指導部による独裁体制批判へと変質していった。それが如実に表れたのが、いわゆる「新華門事件」だ。天安門広場のすぐ西側に位置し、中国共産党・政府の主要官庁が集中し、トウ小平ら中央指導者の邸宅などが集まるのが「中南海」といわれる中国政治の心臓部だ。その入り口が「新華門」で、18日深夜から20日未明にかけ2度にわたって学生らが突入し武装警察部隊と衝突、多数の学生が負傷するなど流血の事態を招いた。
北京市党委員会がこれを「追悼活動に名を借りたかく乱、破壊活動であり、厳罰に処する」と決めつけたことで、広場には学生ばかりでなく、学生支援の市民や知識人、さらには政府職員、解放軍兵士らも自発的に集まり、一時は市民らを巻き込んで200万人もの大規模デモが行われた。
両者の対立が決定的になったのが、4月26日付党機関紙「人民日報」が、学生の運動は文化大革命と同じく、共産党に歯向かう「動乱」であると断定した社説を掲載したことだ。これは学生の主張に好意的だった趙紫陽党総書記が23日から北朝鮮を公式訪問し、北京を留守にした隙に、李鵬首相ら保守派が主導権を握り、トウ小平の許可を得て発表したものだ。
学生らは強く反発し数十万人が天安門広場を事実上、占拠する状態が続いた。当局側も打つ手がないまま時間だけが経っていく。学生側は5月13日午後、主導権を握ろうと、天安門広場で「ハンスト」を行うと宣言した。
式典会場が変更
このようななか、15日正午、中ソ首脳会談のため、ゴルバチョフソ連共産党書記長を乗せた専用機が北京空港に到着した。当初の予定では、歓迎式典は天安門広場で行う予定だったが、広場は学生に占拠されており、急遽、式典会場は北京首都空港に変更された。
この中ソ首脳会談は1959年9月の毛沢東・フルシチョフ会談以来、実に30年ぶりだっただけに、当時の最高実力者だったトウ小平(党中央顧問委員会主任)は自身が成し遂げた中ソ和解の歴史的成果を台無しにされたとの思いを抱いたとしても不思議ではない。
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