メジャー2シーズンで帰国したことに「後悔はある」 日本人大リーガー第1号・村上雅則(81)が語る60年前の渡米と「活躍できる日本人投手」の特徴

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【前後編の後編/前編からの続き】

 ドジャースの大谷や山本、メッツの千賀など、日本人投手が米メジャーを席巻する今から60年前、2シーズンで100三振を奪った「大リーガー第1号」がいた。元Sサンフランシスコ(SF)・ジャイアンツの“サウスポー”村上雅則氏(81)だ。偉業の裏にあった驚きの逸話を明かしてくれた。

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 前編【「パールハーバーのような卑劣な奇襲を仕掛けておいて」と暴言 日本人大リーガー第1号・村上雅則(81)が明かす人種差別との戦い】では、村上氏が弱冠20歳という若さでメジャーに挑戦できた理由、現地で受けた人種差別との戦いなどについて語っていただいた。

 チームメイトからの人種差別を持ち前の負けん気と楽観性で乗り越えた村上氏は、抑え投手としてSFジャイアンツのファームチームのフレズノ・ジャイアンツで49試合に登板。伸びのある速球とキレのあるカーブを使い分け、11勝7敗、防御率1.78を記録した。さらにリリーフとして「ベストナイン」と「ルーキー・オブ・ザ・イヤー」に選出され、チームを優勝へと導いた。

 3カ月とされたアメリカ滞在だったが、その年の6月を過ぎても村上氏に帰国の命が下ることはなかった。当時の南海ホークスは豊富な投手陣をそろえ、パ・リーグ首位を独走していたことが幸いしたのだ。

“明日はハドソン川に浮いているのかな”と

 そして1964年8月30日。村上氏はフレズノの首脳陣に呼ばれ、突然のニューヨーク行きを告げられる。

「飛行機のチケットとジャイアンツの遠征先だったニューヨークのホテル名だけを教えられ、“明朝、出発しろ”と。とりあえずスーツケース1個とサイドバッグ2個を抱えてサンフランシスコに飛んだものの、空港に迎えは誰一人いない。たまたま見かけた制服姿のパイロットにカタコトの英語と身ぶりで事情を説明すると、その人が私の乗る飛行機の操縦士だったのです」

 幸運にも恵まれ、無事、ニューヨークのホテルに着いたが、今度はフロント係から「名簿に名前がない」として宿泊を拒否されるハプニングに見舞われた。

「野宿も覚悟しましたが、当時のニューヨークは物騒なことで知られていましたから、“明日はハドソン川に浮いているのかな”と本気で心配しました。途方に暮れていたところ、球団のマネージャーがようやく現われ、心から安堵しました」

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