「パールハーバーのような卑劣な奇襲を仕掛けておいて」と暴言 日本人大リーガー第1号・村上雅則(81)が明かす人種差別との戦い
「日本人はパールハーバーのような卑劣な奇襲を仕掛けておいて……」
南海時代は手取りで月10万円をもらっていたが、アメリカでは毎月400ドル(当時の相場で14万4000円)と、給料とは別に遠征中は食費として1日3ドルが支給された。
「ただしシーズン給という変則での支払い法だったため、最初に受け取ったのは100ドルから税金を引かれた60ドルのみ。当初は日本から持って行ったお金がなくなっていきました」
キャンプにはメキシコやベネズエラ、キューバなど中南米からの選手も参加していたが、日本人は村上氏と、一緒に野球留学を命じられた南海の後輩選手2人の計3人のみだった。
「初めて人種差別の洗礼を受けたのも、このフレズノ時代でした。終戦からまだ20年もたっていなかったので(太平洋)戦争の記憶も色あせていませんでした。ある時、チームメイトから“日本人はパールハーバー(真珠湾攻撃)のような卑劣な奇襲を仕掛けておいて、もう何もなかった顔だ”と突然、言いがかりをつけられたことがありました」
しかし、他の選手は見て見ぬふりをするばかりで、仲裁する者などいなかった。
「だから、その日の試合前の国歌斉唱の時、掲揚されるアメリカ国旗に一人ベンチで背を向けて、抗議の意を示しました。私のかたくなな態度を見てチームメイトも“よほど傷ついたんだ”と理解したようで、以降は日本人を蔑視する言葉を吐く者は見ませんでした」
「スパナを片手に問い詰めると……」
アメリカでは50年代後半から黒人などマイノリティーの基本的人権を求める公民権運動が全土に広がったが、それでも当時はまだ「白人優位」の風潮が根強く残っていたという。
別の日、転戦先へ移動するバスの中でのことだった。最前列の席で眠っていた村上氏は後頭部に何かが当たる感触で目が覚めた。
「後ろから紙のつぶてを投げられたと分かりましたが、振り返っても皆が眠ったふりや知らん顔をしている。再び眠りにつこうとすると、また投げられるを繰り返され、4度目にぶつけられた時に、運転席の下にあったスパナを握って立ち上がりました。そして後ろに座っていた20名のチームメイト一人ひとりに“アーユー?(お前か)”とスパナを片手に問い詰めていった。誰も“自分だ”と言いませんでしたが、私の剣幕に全員が気圧されていました」
不当な扱いを受ければ毅然と対応する。そんな姿勢を見せることで、チームメイトと対等な関係を形成していったという。
後編【メジャー2シーズンで帰国したことに「後悔はある」 日本人大リーガー第1号・村上雅則(81)が語る60年前の渡米と「活躍できる日本人投手」の特徴】では、村上氏が語る「帰国への後悔」と、メジャーで通用する日本人投手に共通する「ある特徴」について紹介する。
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