「パールハーバーのような卑劣な奇襲を仕掛けておいて」と暴言 日本人大リーガー第1号・村上雅則(81)が明かす人種差別との戦い
入団の条件として“うちに来ればアメリカに行かせてやる”
「2年前の62年9月、私は南海ホークスと入団契約を交わしました。その年、私は甲子園の常連だった法政二高(神奈川)の3年生でしたが、南海の鶴岡一人監督が8月にわざわざ山梨の実家までやって来て入団を勧めてくれたのです。けれど、私は大学に進学して“神宮球場で投げる”ことを目標にしていたので、当初は固辞していました」
高校生活最後となる夏の大会でエースとして期待を集めた村上氏だったが、直前に食あたりで体調を崩す不運に見舞われ、県大会は準決勝で敗退。しかし速球を武器に三振の山を築いたサウスポーをプロ球団は放っておかなかった。
「なかなか首を縦に振らない私を見て、鶴岡監督が入団の条件として“うちに来ればアメリカに行かせてやる”と約束したことで気持ちが変わりました。米西部劇ドラマ『ローハイド』のファンだった私は、アメリカへの憧れがあったのです」
入団1年目は肘を故障し、1軍での登板は3試合にとどまったが、痛み止めの注射を打ちながらファームで7勝をマーク。期待の懸かる2年目にサプライズが待っていた。
「修学旅行気分で日本を後に」
「64年の春、球団が私に“アメリカへ3カ月の野球留学”に行くよう命じたのです。期間は短いものの、球団が約束を守ってくれたことがうれしかった。私としては“憧れのアメリカ生活を満喫してやろう”との思いで、修学旅行気分で日本を後にしました」
渡米後、SFジャイアンツのファームチームで1Aの「フレズノ・ジャイアンツ」のキャンプに参加した村上氏は早速、驚きの体験をすることになる。
「1Aとはいえ、本場アメリカのプロチームです。ところがロッカールームは木造で、ユニフォームも段ボールから各自が“お古”を選び取るといった具合。もちろん専属のトレーナーもおらず、けがをしたら薬箱から適当に取り出して自分で手当てするだけ。グラウンドも雑草が生えてデコボコの状態でしたし、困ったのは球場のナイター照明が異様に暗かったことです。外野フライを打たれて目で追っても、慣れるまでは打球がどこに飛んだのか分からなかった」
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