「パールハーバーのような卑劣な奇襲を仕掛けておいて」と暴言 日本人大リーガー第1号・村上雅則(81)が明かす人種差別との戦い

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【全2回(前編/後編)の前編】

 ドジャースの大谷や山本、メッツの千賀など、日本人投手が米メジャーを席巻する今から60年前、2シーズンで100三振を奪った「大リーガー第1号」がいた。元サンフランシスコ(SF)・ジャイアンツの“サウスポー”村上雅則氏(81)だ。偉業の裏にあった驚きの逸話を明かしてくれた。

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「日本人がこれだけメジャーリーグで活躍する日が来るとは、60年前には想像もしていませんでした。私がメジャーの舞台で投げていた頃と比べると、環境も様変わりして、まさに隔世の感があります。それでも当時の情景は昨日のことのように覚えていますよ」

 傘寿を過ぎたとは思えぬ張りのある声でこう語るのは、日本人として初めてメジャーのマウンドに立った村上雅則氏である。

「メジャー選手になりたくて渡米したわけではなかった」

 村上氏のメジャーデビューは1964年。アジア初の開催となった東京オリンピックと同じ年だ。全米に“トルネード旋風”を巻き起こした元近鉄の野茂英雄氏(56)がドジャースに入団した95年より30年以上も前にさかのぼる。

「メジャー登録の翌日に(ニューヨーク・メッツの本拠地だった)シェイ・スタジアムのマウンドに立ち、おまけに1Aからいきなりのメジャー昇格でしたから、当時20歳の私にとっては驚くことばかりでした」

 メジャーリーグには上から3A・2A・1Aの下部組織があり、1Aから“飛び級”でメジャーに昇格するのは異例中の異例だった。

 村上氏が所属したのは、強豪チームの一つ「SFジャイアンツ」。同チームでの2シーズンで通算54試合を投げ5勝1敗9セーブ、奪三振100の好成績を収めたが、実は「メジャー選手になりたくて渡米したわけではなかった」という。

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