「山一證券なんて潰せ」「いや再建だ」…田中角栄氏も動いた64年「日銀特融」の“秘密会合”、大蔵省の高級官僚が見た舞台裏
車の中では絶対にこの話をしない
当時、この“作戦”の中心となった加治木俊道財務局証券部長(後に証券局長、関西電力取締役)が、この間の経緯を語る。
「実は、山一がニッチもサッチもいかなくなった、といい出したのは昭和39年(1964年)の夏のことなんです。主要取引銀行である日本興業銀行に報告してきたんです。そこで、なんとかしなければ、と興銀の中山素平(頭取)さんのキモイリで、三菱、富士、興銀の3行が中心に再建案を作るための集まりを持つようになったのです。
以来、翌年の5月19日、最終的な再建案が日銀氷川寮で確認されるまでに、何十回となく秘密裏に討議を重ねていたのです。大蔵省内部でこのことに関与し、これを知っていたのは私を含めてほんの2、3人、覆面で作業をしたわけです。会議の場所も、むろん大蔵省なんかではやらず、興銀の内部とか、そのほかとんでもないところでやりました。
とにかく、山一は危ないということが外部にもれないようにと、私たちは非常に気をつかいました。もし再建案ができる前に外部にもれるようなことがあれば、取り付け同然の騒ぎが起こって、信用不安がつのることは必定だったんです。そのそのため私たちは、車の中では、絶対にこの話をしないようにしていました。役所の人事なんかにしても、運転手の口からもれるというようなことは、よくありますからね、気をつかいました」
これは山一だけの問題ではない
再建案が煮詰まる段階では、この隠密作戦は、さらに徹底したものとなる。
「新聞7社、NHKなどのデスクの方にも、再建案ができたら発表するからということで、書くことをひかえてもらいました。社会党の横路節雄さん(国会対策委員長)にも話をつけて、国会で取り上げることを少し遠慮してもらいました。さすが社会党はオトナで、よく複雑な事情を理解してくれました。もっとも、特融が決まってからは、私も社会党の議員さんに何度となく詰め寄られましたが、……でも決まってからはアトの祭りですよ……」
では、何十回となく開かれた再建案を練るための秘密会では、いかなる議論が出たか? 冒頭にあげた5月19日の会合では、すでに決められたことの確認を行うだけだった、という。
「その間の会合では、大別していうと、“山一なんかつぶしてしまったほうが、後の処理が楽でよい”という意見と、“いや、つぶれたら大へんだ。なんとか再建しよう”という論があり、この二つの声の間を、絶えずゆれ動いていたんです。しかし、大銀行の首脳部は大したもので、最終的には“これは山一だけの問題ではない”と考えていただけたようでした。田中(角栄)蔵相も、ほとんどの会合に顔を出され、先頭に立ってやっていただきました。政治家だけあって、ポイントを押さえ、大局的に事態を把握されていたのには感服しました」
[2/3ページ]