「山一證券なんて潰せ」「いや再建だ」…田中角栄氏も動いた64年「日銀特融」の“秘密会合”、大蔵省の高級官僚が見た舞台裏
「返済には30年かかる」と言われたが
こうして、山一証券の人事の刷新、経費の削減、さらに銀行金利のタナ上げ等の再建案が作られ、最終的には、日銀特融の非常手段をも辞せず、という方向に進んでいった。
「日銀特融については、当時、返済には30年かかるだろうと、経済専門のジャーナリストを含めて一般にはそういわれました。私が、5年あれば大丈夫だといくら説明しても、少しも信用していただけなかったのには閉口しました。それが、実際には3年半たらずで済んだわけですからね……。
まあ、当時の、山一はダメだ、というフンイキからすれば、30年というのもやむをえない点があったかもしれません。しかし、当時、一般の人は、山一に、不動産も、景気が好転すれば値上がりする株もあったことを、すっかり見落としていたんですね」
恐慌は、そういう一般の心理的盲点が拍車をかける場合もありうる――そういう教訓を残した、といえようか――。
(以上、「週刊新潮」1971年1月9日号「『山一』特融を決定するまでの大蔵省作戦本部」より)
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「社員は悪くございません」で伝説に
日本はそれからも好不況の波に翻弄された。1965年11月から1970年7月のいざなぎ景気は、山一が日銀特融の返済を早々に終えることができた要因となる。
80年代後半からのバブル景気は日本各地で“金満エピソード”を生んだが、崩壊する際の衝撃波もすさまじいものだった。山一は損失をめぐる法令違反などもあり、1997年11月24日、自主廃業の発表に至る。
前回の日銀特融をいざなぎ景気で返済できたように、「景気さえ良くなれば」という期待が損失の放置につながったという指摘もあった。廃業発表の会見では、4カ月前に社長に就任したばかりの野澤正平氏が号泣。「私ら(経営陣)が悪いんです。社員は悪くございません」という有名な言葉を残している。
前代未聞となる二度目の日銀特融は、この会見の前、大蔵大臣の三塚博氏と日銀総裁の松下康雄氏(ともに当時)が明らかにした。その目的は、国内外への影響を最小限にとどめることと顧客の資産保護である。
山一は1998年に自主廃業を断念。1999年6月に東京地方裁判所から破産宣告を受け、2005年に解散した。以上の経緯はまた別のドラマとなる。
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