「田中角栄」政権誕生のウラに知られざる人脈 “今太閤”の後ろ盾は名門「ハプスブルク家」と「希代の日本人フィクサー」だった
シナリオを描いた男
昭和史に関心がある人なら、名前は聞いたことがあるかもしれない。戦前、非合法の共産党の委員長で、武装闘争を続けて投獄。それが刑務所で転向すると、戦後は右翼の黒幕となった。血みどろの反共活動をしながら、石油ビジネスに参入。海外の王族や石油メジャーと交渉し、いくつも油田権益をもたらした。
その間、内外に豊富な人脈を築き、その一人がオットー大公だった。二人は60年代初めに出会い、家族ぐるみで付き合い、国際的反共活動で連携した。
ブダペストのオットー・ハプスブルク財団は、生前の大公が遺した膨大な文書を保管している。今春、現地を訪れ、それを調べた際、キッシンジャー工作を依頼したのは清玄だったことが分かった。
1972年5月、来日した大公は、伊豆高原の清玄宅で昼食を共にした。そこで田中政権樹立で合意したらしい。日本をたったオットーは、すぐにキッシンジャーに手紙を出した。その後も、清玄から国内の政局が刻々と伝えられる。
田中清玄-オットー大公-キッシンジャーの陰のラインが存在したのだった。
では、なぜ清玄は、田中政権樹立を目指したか。その鍵は、オットーとの書簡に頻繁に登場する「アブダビ」「インドネシア」という言葉にある。
当時、清玄は産油国のアラブ首長国連邦のザーイド大統領、インドネシアのスハルト大統領と組み、新たな油田権益を狙っていた。それには日本政府の後押しが要る。これに最も理解を示しそうなのが田中角栄だった。
日中国交回復の背景にも
実際、総理に就任した田中は、積極的な「資源外交」を展開する。自ら海外を回り、現地の首脳と油田権益の交渉をした。拙著『田中清玄 二十世紀を駆け抜けた快男児』で触れたが、そのシナリオを描き、支援したのが清玄だ。結果として、仲介した彼に巨額の手数料が転がり込んだ。
だが金儲けだけが目的ではない。オットーの下には世界中から国際情勢、特に共産圏の情報が集まってくる。いずれも独自のソースから得たインテリジェンスだ。それを清玄は手に入れ、田中に渡していた。72年の秋、清玄はオットーにこう書き送った。
「総理によると、9月末に北京に行った際、大公の情報は極めて有益だった。おかげで自信を持って毅然として中国と関係を始められた。大公が来日する際は、何があってもお会いしたいと言っている」
むろん、田中内閣の金字塔とされる日中国交回復を指す。この年の9月、田中は北京を訪れ、中国政府と交渉し、国交正常化へ道を開いた。そして当時オットーは、ソ連の脅威に対抗するには、中国の協力が必要との立場だった。その点、日中の接近は歓迎できる。国交正常化は、ハプスブルク家の反共戦略とも一致していた。
その後も田中は、清玄を通じてオットーと関係を持ち続ける。だが1974年の秋、運命は暗転した。金脈問題を追及され退陣し、そして、ロッキード事件で逮捕された。それでも自民党の最大派閥を率い、闇将軍として君臨する。だが、脳梗塞で倒れると完全に政治力を失い、1993年に亡くなった。大物政治家としては寂しい最後だった。
“偉そうな奴から、道端の石ころを見るような目でいつまでも見られてたまるか”
新潟の寒村から出てきた男の野心とコンプレックス、それが欧州の名門との邂逅(かいこう)を生んだ。そして最高権力を手にし、歴史を動かし、転落していった。ブダペストに眠るハプスブルク家の文書は、その栄光と悲劇の記録でもあるのだ。




