「田中角栄」政権誕生のウラに知られざる人脈 “今太閤”の後ろ盾は名門「ハプスブルク家」と「希代の日本人フィクサー」だった
オットー大公の手紙
このように田中政権誕生で重要な意味を持つのは、キッシンジャーだ。そして当時、政界ではある疑問がささやかれた。
「たしかに当初、4月中旬に予定されたキッシンジャー氏の訪日スケジュールでは、福田外相との個別会談だけは決っていたものの、田中通産相との一対一の会談はなかった。それが今回の日程表では、福田、田中両氏とも同格扱いだ。しかし、どうしてこうなったのか」(「朝日新聞」1972年6月10日)
冒頭で触れたように、この会談には、欧州のある人物の強力な意志が働いていた。その人物は世界的人脈を持ち、田中を総理にすべく、キッシンジャーに働きかけた。中世から欧州に君臨したハプスブルク家の当主、オットー大公である。
ハプスブルクといっても、ピンとこない人もいるかもしれない。そもそも、オットーとは何者なのか。
ハプスブルク家は、13世紀、ルドルフ1世が神聖ローマ皇帝に即位して以来、第1次大戦後、1918年に帝国が崩壊するまで欧州に君臨した。その領地は現在のオーストリアからハンガリー、ルーマニア、ウクライナ西部などに及び、オーストリア=ハンガリー帝国として歴史に残る。伝説的な女帝マリア・テレジア、悲劇の皇妃エリーザベトも一族である。
最後の皇太子、オットーが生まれたのは1912年。帝国の崩壊により6歳で両親と亡命を余儀なくされた。欧州各地を転々とするが、20代の頃アドルフ・ヒトラーがオーストリアを併合してしまう。オットーは、第2次大戦で反ナチスの抵抗運動を行い、戦後はソ連に支配された東欧を支援した。
各国の王室、有力政治家と親交を持ち、国際政治をも動かす。その友人の一人が、キッシンジャーだった。
日本の歴史を変えた「一通の手紙」
72年5月25日、オットーはキッシンジャーに手紙を送った。今度訪日する際、ぜひ田中に会ってやってほしいという。
「田中は、あなたと素晴らしい仕事ができると信じる。たとえ今回、佐藤の後を継げなくても、長期間、日本の重要な勢力になるだろう。その性格は数ある中で最も強固かつ野心的だ」
「田中はまた、長老たちの引退後、自民党を支配するであろう気質を代表している」
じつはその直前、オットーは日本を訪れ、田中に会っていた。そして、並外れたエネルギーと率直さに強い印象を持ったらしい。この要請をキッシンジャーも受け入れた。
こうして見ると、オットーの働きなしに田中政権は誕生しなかったかもしれない。その後の田中派の隆盛はなく、石破政権も生まれなかった。今の自民党、政界は全く違ったものになっていた。たった一通の手紙が、日本の歴史を変えてしまったのだった。
冒頭の田中の手紙は、それに対する感謝の言葉だ。そして自民党総裁に選ばれた日、オットーも祝福の電報を送っている。
牛馬の糞尿の臭いの中、飯を食っていた田中角栄。彼を救ったのは神聖ローマ皇帝の末裔(まつえい)、欧州きっての名門だった。軽井沢の別荘族など目じゃない。つくづく、歴史とは予想もしない演出をすると思い知らされる。
そして、ここでもう一つ、疑問が湧く。そもそも、オットーはなぜ田中を推薦したのか。ただ本人の性格が気に入っただけか。じつはこの裏では、ある日本人が暗躍していた。彼もまた田中政権誕生を望み、ひそかにオットーを動かした。国際的フィクサーとして知られた田中清玄(きよはる/通称・せいげん)である。
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