「田中角栄」政権誕生のウラに知られざる人脈 “今太閤”の後ろ盾は名門「ハプスブルク家」と「希代の日本人フィクサー」だった
「田中は初等教育しか受けていません」
翌月、来日したキッシンジャーが佐藤と会った際、後継者が話題に上った。機密解除された米側の議事録によると、やり取りはこうだった。
佐藤「新聞は新しい風が必要などと書いてますが、共産党や社会党に政権が移るわけじゃありません。次期総理も自民党から出ますよ。候補者は福田外相と田中通産相で、党内の支持は違いますが、一高から東京大学を出た福田の方が本流です。大蔵大臣もやったエリートと目され、それに対して学歴のない田中は初等教育しか受けていません」(中略)
キッシンジャー「ここだけの話ですが、あなたは福田が総理になるのがベストだと?」
佐藤「その通りです」
当時、田中はまだ自前の派閥を持たず、所属はあくまで佐藤派だ。ところが、親分の佐藤は露骨な福田びいきを口にしていた。まるで小学校しか出ていない田中への侮蔑のように思える。
だが、もっと露骨なのは“上流階級”とされる人種だった。田中が長野県の軽井沢に別荘を買ったことがある。その時、古くからの別荘族という一流会社の社長夫人は、こう言い放った。
「私ども戦後まもなくから、ヒッソリとここの自然とユッタリした生活を楽しんでまいりましたのよ。そりゃ、裸一貫から総理になられたことは尊敬申し上げますわ。でもとたんに所もあろうに軽井沢に別荘をお持ちになるなんて見えすいてらっしゃるじゃございませんか」(「週刊文春」1972年9月4日号)
米大統領補佐官のお墨付き
こうした視線を本人も分かっていたのだろう。彼に20年以上仕えた秘書の早坂茂三が、著書で触れている。総理になった後、田中が笑ってこう語ったという。
「臭い飯というのは刑務所暮らしの飯だと世間では通り相場になっているが、それは違う。俺たちのような百姓が牛や馬の糞・小便の臭いが漂う中で食う飯こそ、ほんとうの臭い飯だ」(『オヤジの知恵』)
実際、幼い田中が住む家はハエやアブ、ノミだらけで、土間の一角に家畜を飼っていたという。当然、敷きわらから糞尿の臭いが漂ってくる。早坂は言う。
「だから、あのおっさんの最大の特色は、闘争心になった。負けてたまるか。すりつぶされてたまるかという闘争心。偉そうな奴から、道端の石ころを見るような目でいつまでも見られてたまるか。鼻っ先であしらわれてたまるか。こういう思いだね。誰にも負けないぞと」(同書)
今の自民党の総裁選などとは次元が違う。野心とコンプレックスがむき出しの権力闘争、それが1972年の政界だった。そして、権力を奪うため田中は、ある人物に近づくことを考えた。彼のお墨付きがあれば、エリートに勝てるかも、と。来日したヘンリー・キッシンジャーである。
今では滑稽に映るが、当時のわが国で、米外交を牛耳るキッシンジャーは雲の上の人だった。羽田空港に専用機が着けば、タラップを降りた先に赤いじゅうたんが敷かれる。移動もパトカーが先導し、彼と会うのはステータス・シンボル、総理候補に最高の箔付けだった。このキッシンジャーが田中とサシで会ったのだ。
6月12日、ホテルオークラで、二人は2時間以上にわたって会談した。それは大きく報じられ、田中周辺は勢いづく。その5日後、佐藤が正式に退陣を表明すると、後継争いが本格化した。7月5日の臨時党大会で、田中は福田を破り、新総裁に選ばれる。そして翌6日、ついに国会で内閣総理大臣に指名された。
雪深い田舎から出てきた少年が、最高権力者に上り詰めた瞬間だった。
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