新京成→京成、泉北→南海 政治に翻弄された東西の私鉄
団地と鉄道のタッグ
京成とタッグを組んで沿線の宅地化を推進したのが、1955年に発足した日本住宅公団(現・都市再生機構=UR)だった。住宅公団は収入面で新京成を支えることになる。こうして、新京成の沿線には住宅公団が造成・建設した集合住宅が多く点在していく。なかでも1960年から入居を開始した常盤平団地は公団史にとって重要な団地となった。
常盤平団地は住宅公団が初めて土地区画整理方式を採用して造成・建設した。土地区画整理法は1954年に制定されたばかりの新しい法律だが、その前身となる耕地整理法は1899年に制定されている。どちらの法律でも換地によって公共減歩・保留地減歩が生じることが規定されていた。
減歩とは一般的に馴染みのない言葉だが、これは区画整理によって土地の所有者が従前に所有していた面積から道路や水路といった公共物のために少しずつ土地を提供する仕組みだ。同様に事業者減歩も土地区画整理のための事業費を捻出するために土地所有者が少しずつ自分の土地を提供しなければならない。
つまり、区画整理を実行すれば住民たちは自分たちが所有していた農地を強制的に提供させられることになる。それは農地の減少を意味し、農作物による収入が減ることを意味する。
減歩は耕地整理法の時代から盛り込まれていた考え方ではあったが、住民たちが十分に理解されているとは言い難かった。それにも関わらず、公団が強引に事業を推し進めたことで地域住民は不満を爆発させた。これが反対運動を激化させることになり、その収束までに5年もの歳月を費やすことになる。
常盤平団地が入居を開始した翌年には、新京成の沿線に高根台団地も完成する。新京成は同団地の最寄駅として高根公団駅を新規に開業した。同駅が開業したことによって、高根台団地の住民は電車に乗って都心まで通勤できるようになったといわれる。
実際に高根台団地から東京都心部まで通勤していた人は少なくないが、当時の感覚では高根台団地から東京までは遠かった。それゆえに高根台団地はたびたび“陸の孤島”と揶揄されている。
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