「俺がお前のファン第1号なんだ」…澤田知可子が“資本は声”に気づいた夜と、忘れられない別れ

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 大ヒット曲「会いたい」などで知られる歌手、澤田知可子(61)。そのミリオンセラーに至る原点は埼玉県旧浦和市のライブハウスにあった。歌手になると決めてから1年も経たずに夢を実現したものの、「会いたい」にたどり着くまでは3年かかった。

(全2回の第1回)

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フィンガー5に会いたい

 子どもの頃に憧れていたのは、当時人気の絶頂にあったきょうだいグループ「フィンガー5」だった。

「私の2つ上が(四男でメインボーカルの)晃さんでした。小学校のクラスメイトとグループを組んで、テレビに出て歌いたくてオーディションを受けに行くような子どもでした」

 当時放送されていた『おはよう!こどもショー』(日本テレビ系)のオーディションを受けるため埼玉県与野市(現さいたま市)から東京・有楽町に出向くと、人気絶頂だったフィンガー5の曲を歌う子どもがほとんどだったという。

「100組いれば90組はフィンガー5を歌うような状況。森昌子さんや森進一さんの歌を歌えばすぐテレビに出られるのに、フィンガー5だと出られないんです。4年生から6年生まで通いましたが、出演は一度もかないませんでした」

 どうしても諦めきれず、審査員に落選した理由を聞きに行った。

「君たち確かに歌は上手だったんだけどね。……うん、子どもらしさに欠けていたんだよ」

 その言葉を聞き、6年生でグループは解散。テレビに出て歌う夢もそこで封印し、中高時代はバスケットボールに熱中。高校卒業後は、埼玉県交通安全協会に就職した。

「当時はまず一度社会人を経験して、そこから本当に自分のやりたい職に進もうというテーマを掲げていました」

カラオケパブでジャズバンドのメンバーに誘われ

 1985年の年明け。交安協の同僚女性たちとカラオケパブで新年会を開き、ステージ上で杏里の「悲しみがとまらない」を歌っていたところ、浦和市役所の吹奏楽団のメンバーに声を掛けられた。埼玉会館で開かれる成人式でその曲を演奏するので、そこで歌ってほしいということだった。

「ブラスバンドの生演奏で歌えるなんて楽しいかも、と思って引き受けました。すると、そのメンバーの何人かに、ジャズの4ビートのバンドをやっているから、ボーカルをやってよ、って言われたんです」

 やりたい仕事はまだ見つかっていなかったが、趣味としてライブで歌う楽しさに惹かれ、それも引き受けた。半年ほど歌い続けたころ、ライブハウスに来ていた10歳ほど年上の女性に「あなた、将来何になりたいの?」と尋ねられたという。

「天職が見つからないんです、と答えたら、『あなたの資本は声だよ、それに気づきなさい』っていわれたんです。その方はもともとジャズシンガーを目指していたそうですが、家業を継いで印刷業を経営しているとのことでした。『資本は声』と言われたことが衝撃で。バスケ時代に憧れていた先輩が、当時マツダの事業団のバスケ選手で、練習後の毎週火曜日に私の歌を聴きにライブハウスに立ち寄ってくれていたので、その話を伝えたんです」

 先輩のお気に入りの曲は杏里の「オリビアを聴きながら」。ジャズバンドだったが、澤田のリクエストで何曲かこうしたポップスも歌っていた。印刷業の女性の言葉に受けた衝撃を話すと、先輩は背中を押してくれた。

「俺がお前のファン第1号なんだよ。自信持てよ。人生勝負しろよ、って言ってくれました。やはり体育会系なんですね(笑)。そう言ってもらえたのが本当に嬉しくて」

 だが、澤田がそんな言葉の嬉しさを噛み締めていた頃、先輩は同じ週の土曜日に交通事故に遭い、帰らぬ人となった。まさに後の「会いたい」の世界そのままなぞるような出来事が起きていたのだ。

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