「俺がお前のファン第1号なんだ」…澤田知可子が“資本は声”に気づいた夜と、忘れられない別れ

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泣ける歌を歌いたい

 先輩は「お前の歌声を聞くと泣けるんだよな」と生前よく話していたという。振り返れば子どもの頃から好きだったのは、泣ける曲か踊れる曲という極端なタイプの歌だった。

「そういう泣けるようなシチュエーションをくれる歌に出会いたい、という気持ちが自分の中をよぎるようになりました。それが歌手になりたいという夢の種になったんです。そうした思いに共感してくれるプロデューサーを探そうと、オリジナル曲やカバー曲をレコード会社に送ったり、オーディションを受けたりするようになりました」

 期限を1年と定め、曲作りやライブなどに精を出した。そんなある日、バンドメンバーから聞いた東京・渋谷のライブハウス「ランタン」のマスターにデモテープを渡したことがきっかけとなり、デビューが決まった。歌手になると決めてから10カ月後のことだった。

自分を生かすのは声が一番

 曲作りを始めて、その楽しさもわかるようになったが、それでも「プロのシンガーソングライターとしてデビューするほどではない」と思っていたという。

「自分を生かしてくれるのは声。自作の曲でデビューするのではなく、自分の声を生かすことが一番だと思ったんです」

 デビュー曲「恋人と呼ばせて」を作曲したのは「ジャッキー吉川とブルー・コメッツ」のリードボーカルとしても活躍した井上大輔。あのフィンガー5の大ヒット曲「恋のダイヤル6700」「学園天国」の作曲者でもあった。

「もちろん大喜びだったんですけど、この曲は不倫の歌だったので、歌詞にやや気持ちの上で抵抗がある部分があり、レコーディング中にトイレで泣いていたくらいでした。喜びと悲しみが背中合わせのようなデビューだったんです。当時23歳の小娘だった私には大人すぎる曲でした。今では、これがデビュー曲で良かったと本当に感謝しているんですけどね」

 歌を天職と定めてから、あれよあれよという間にデビューに至ったが、当初の思いとは裏腹に、自分で作った曲をシングルにしたいとの欲も出てきた。

「そういう自分の欲との戦いが、今度は自分の首を絞めていくんです。後に出した『会いたい』は財津和夫さんの曲で大ヒットしましたが、自分の書いた曲でヒットしたい、という思いがありました。それ以前はなかなか売れる曲に出会えず、『会いたい』が出るまでの3年間は、売れないという現実と、自分の中の葛藤と、ずっと受験生のように戦っていました。そんな中、また自己啓発的に目標を立てたんです。人生の1万日記念日は27歳と数カ月で迎えるから、24歳のデビューから3年をがむしゃらに頑張るぞと自分に言い聞かせていました」

 運命の曲「会いたい」に出会うまでは、まだしばらくの時間を要することになる。

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 天職として歌手の道を歩み始めながらも、もがき続けた澤田知可子。第2回【澤田知可子「会いたい」誕生秘話 有線放送で火がつき急きょシングル化、大ヒットも「苦しみがすぐに来た」】では、「会いたい」との出会い、そしてその後について語っている。

デイリー新潮編集部

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