血縁者は「事件が親戚の結婚の障害となったことも」 未だ消息不明の「阿部定」 生きていれば「120歳」

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 阿部定事件が起きたのは、1936(昭和11)年5月18日。今年で90年目を迎える。阿部定が生まれたのが1905年(明治38年)5月28日だから、今年5月末で生誕から120年という節目となる。

 首絞め情事の果てに最愛の人の命を奪い、さらには牛刀で切り取った局部を隠し持ち逃亡を図った、阿部定。

 節目の年を機に、『阿部定正伝』の著者、ノンフィクションライターの堀ノ内雅一氏が、彼女の人生を振り返り、なぜ阿部定がここまで人々の関心を引き付け続けるのかを探った。
【前後編の後編】

【後編】では、出所後の阿部定の生活、そして消息不明になった“その後”を記している。

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模範囚

 模範囚として4年4カ月の刑期を終えた定は、太平洋戦争が始まる41年(昭和16年)に出所する。日付けは、またしても因縁のある5月の17日。社会復帰に向けた援助策として刑務所側が用意したのが、“吉井昌子”という偽名だった。

 新たな人生をスタートさせた定は、42年ころには、ある「真面目な勤め人」との実質の結婚生活もあったと伝えられる。しかし、これも、終戦を挟んで、戦後に出版された『お定色ざんげ』など阿部定事件をスキャンダラスに綴ったカストリ本が次々に出たことで、彼女の素性が夫にもバレて、4年ほどで自然消滅していた。

 猟奇事件のヒロインという過去を消そうと、懸命に吉井昌子として生きようとした定だったが、案の定というか、世間はほうっておかなかった。

 多くの暴露本に加え、「満州のカフェの女主人に」などという怪しげな誘いが、再び関わりを持つようになった柳葉(=17歳で最初に預けられた、阿部家の遠縁にあたる女衒)を通じて入ってくる。事件の衝撃の大きさから近しい親類とは絶縁状態になった定には、頼る相手が遠縁であり、男女の関係もあった柳葉しかいなかったのだろう。

 さすがに満州行きは断ったが、とにかく食べていくため、彼女は偽名を捨て、再び「阿部定」として生きていく決心をし、やがて事件を扱った「阿部定劇」の主人公を自ら女優として演じるようになる。当時、阿部定劇はカルト的な人気を呼んで各地で演じられ、日本中に同時に幾人もの阿部定が出現したほどだった。

二重生活

 しかし、この女優業も長続きはせず、定はまた水商売に戻り、49歳のときには、上野の割烹・星菊水に10万円のスカウト金で看板仲居として招かれた。

『お定さんの夢の大広間で、お定さんのお酌で一杯』

 半ば野次馬根性で押し寄せる客たち。

「あの、チン切りのアベサダと酒が飲めるのか」

 連日の大盛況で、再び阿部定ブームが巻き起こる。

 この後しばらくは、店からタクシーで10分の台東区下谷に暮らしながら、昼はご近所の“阿部のおばさん”で、夜は“あの阿部定”という二重生活が続いた。

 58年の売防法の翌年、10代から色街を渡り歩いてきた定が、星菊水での真面目な働きぶりを評価され、東京飲料同志会から優良従業員として表彰されたのは、皮肉な出来事ともいえよう。

お金、欲しいのよ

 この期間に地道に資金を溜めたのか、はたまた羽振りの良いパトロンと出会ったのか、荒川区三ノ輪で初めて自分の店・おにぎり屋の「若竹」を開いたのは、還暦も過ぎた62歳のとき。

 社会を騒がせた事件から30年の歳月を経て、女店主となったこの店では、あの阿部定見たさの客は出入り禁止で、事件のことを酒の肴で少しでも話題にしようものなら、途端に定は半狂乱となり客といえども叩き出したという。

 それでも定は、この若竹時代の69年に実名で映画に出演している。石井輝男監督の「明治・大正・昭和 猟奇女犯罪史」がそれ。わずか数分のインタビューでの登場とはいえ、あれだけ素性を隠そうと務めていただけに矛盾した行動に思えるが、当時の隣人にこんな本音を洩らしていた。

「あたしもお金、欲しいのよ」

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