血縁者は「事件が親戚の結婚の障害となったことも」 未だ消息不明の「阿部定」 生きていれば「120歳」
私はダメな女
この告白の数日後、三ノ輪からも突然、夜逃げ同然で居なくなる。若い恋人に借金を背負わされたのが原因だった。
定の最後の生活の場として判明しているのが、千葉の勝山ホテル。71年(昭和46年)1月のことだ。ここで仲居をし、ようやく年相応の落ち着いた日々を迎えている。ときには、同僚の仲居と食事をしているときに、
「おしんこに醤油なんか、そんなにビシャビシャかけるもんじゃないよ」
などと根っからの神田っ子らしい、歯切れのいいセリフも飛び出していた。さらには女将に、「あたし、ここで死に水を取ってもらいたいわ」と口にするほど心を許す素振りもあったというが、半年が過ぎた頃、今度は置き手紙を残して、ふつりと居なくなる。
『ママ様 お詫び申し上げます ショセン私はダメな女です』
箸袋の裏に意外に達筆な文字で書き記して、定はホテルからだけでなく、世間からも完全に姿を消す。66歳だった。
死亡説
主に阿部定の事件後の消息を追いながら4年半にわたり取材を続け、私は98年2月に『阿部定正伝』(情報センター出版局)を上梓した。事件から半世紀以上が過ぎていたが、いまだ阿部定人気は健在で、失踪後も前述のとおり、事件やその生きざまをテーマにした映画や出版が続いていた。
なにより、あれだけ世間を賑わせたヒロインでありながら、実は阿部定の最晩年の消息は生死を含めて不明なまま、という謎めいた事実が私を余計に駆り立てた。
勝山ホテルから失踪後の阿部定の消息については、生死を含めて諸説ある。
最初に、死亡説から。
・琵琶湖老衰説。
勝山ホテルを出て、再び仲間と旅回りの一座で巡業していたがうまくいかず、72年ころに琵琶湖のほとりで老衰で死んだ。
・尼寺死亡説
40歳も年下の男と出奔したが、その愛人にも逃げられ、最後は名古屋市内の尼寺で死亡した。
これら死亡説は、いずれも当時の浅草や下谷に流れていた噂話をもとにしたもので、寺の名前などもわからず確認のしようがなかった。また後述するが、取材の初期に、この時点での死亡説が本当に流言の類に過ぎないと判明する。
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