血縁者は「事件が親戚の結婚の障害となったことも」 未だ消息不明の「阿部定」 生きていれば「120歳」

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生存説

 続いて、生存説。

・尼寺隠遁説
 74年11月、滋賀県大津市の尼寺に、一通の葉書が舞い込んだ。そこには「阿部定という者が尼になりたく、そちらへ向かう」とあり、実際に12月中旬に阿部定を名乗る女性が訪れた。

・熱海生存説
 同じく74年頃から、熱海の政府関係者の保養所で、名を隠して、ひっそりと暮らしている。入所できたのは、大企業の重役に嫁いだ裕福な親類の仲介があったから。

 まず、尼寺説。所在の判明した大津の寺を訪ねると、住職その人が、阿部定を名乗る本人が訪れたことを認めた。そして、

「たしかにお見えになりました。私はお茶のお稽古の最中で、手伝いの女性が対応しました。ただチラとお顔を拝見しましたが、想像以上にお年寄りで意外でした。申し訳なかったですが、当時、すでに定員いっぱいの女性が寺に暮らしており、お引き取りいただくしかなかったのです。それ以降、まったく音沙汰なしです。お顔も覚えていませんし、葉書も残っておりませんで、すみませんです」

 続いて、熱海説。これも以前にマスコミに名前の出たI荘や、その周辺の保養所を片っ端から当たったが、個人情報もあり、回答をもらえた範囲で阿部定という人が滞在している施設はなかった。

 あとは、この保養所を仲介した「裕福な親類」の線を辿るしかないが、ようやく話を聞けた血縁者の女性は、

「当時、あの事件が親戚の結婚問題の障害になったこともありました。現在は、孫世代ですが、家族の誰一人“あの人”とのつながりはありません。どんな女性だったか? それは、事件前には、気持ちのきれいな、まっすぐな人だったとは思いますが……」

 と、複雑な胸中を吐露した。

青木ヶ原

 その後も取材を続け、阿部定が80年頃まで、つまりは勝山ホテルを出たあとも75歳までは、浅草界隈にいたことが判明した。これで、当時、流布していた死亡説は消えることになる。

 しかし、この浅草での生活も、1カ月も経たないうちに定は消息不明となり、終わる。その直前には、当時一緒にいた知人に向かって、富士の樹海について書かれた雑誌記事を見ながら、

「ここに青木ヶ原って出てるのは、誰にも知られずに死ねる自殺の名所だってね。あたしも、最後はここへ行こうかと思うのよ」

 と言い残したことまでわかっている。新たに「・富士樹海自殺説」を加えるべきだろうか。

 結局、誠に無念だが、4年以上も阿部定を追いながら、ついに定本人にも、また失踪の真相に辿り着くことも叶わなかった。

 ただ、ごく近しかった関係者たちの証言から、私としては、密かに世話をする旦那、パトロンがいて後見人となり、彼女の身元を隠したまま世話をしながら最後は看取ったのではないかと、その最期を思い描いていたりしている。

 取材の過程では、高齢と、若い時分から患った梅毒の後遺症で己のことすらわからなくなり、いわゆる行旅死亡人となって野垂れ死んだという噂話まであったので、私のパトロン説は、希望的観測となるかもしれない。

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