「社長、プロレスラー猪木は私との合作ですよね?」…“過激な仕掛け人”新間寿さんが生前に明かしていた“猪木ヘの思い”

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 新間寿さんが亡くなった(4月21日。享年90)。プロレスラーではなく、リング外でフロント業務をこなす背広組でありながら、“過激な仕掛け人”の異名で知られ、往時の新日本プロレスで数々のビッグマッチを実現させて来た偉人であった。後年は筆者も取材やインタビュー、そして私的な会食で何度もお世話になった。故人の発言を中心に、その濃厚な人生を振り返りたい(文中敬称略)。

「挨拶も出来ないのか!」

 1935年、東京都新宿区生まれ。中央大学卒業後、化粧品会社で働いていたが、それ以前に、力道山率いる「日本プロレス」のジムで練習していた過去があり、知己を得ていた選手たちに協力する形でプロレス業界入りした。アントニオ猪木が立ち上げた最初の団体、東京プロレスに参加するが、同団体が左前になると、金銭疑惑で揉めて袂を分かつことに。しかし、猪木が新日本プロレスを旗揚げすると、旧交が復活。新間が舞台裏の要職を担った。1989年、アントニオ猪木が立ち上げた政党「スポーツ平和党」でも幹事長を務めた。

 筆者が新間の存在を具体的に意識したのは大学時代、プロレス研究会の先輩が語る体験談からだった。1989(平成元)年、まだ当選前だった猪木の講演会を開きたいと、先輩たちがアポを取り付け、スポーツ平和党の事務所内に遠慮がちに入ると、当時54歳だった新間から一喝されたという。

「何だ!? 最近の学生は自分から挨拶も出来ないのか! 君たち、挨拶は全ての基本だぞ! そもそも……」

 と、いきなり長時間の説教を食らったと言うのである。そして迎えた大学の講堂を借り切っての2時間の講演会では、主役の猪木が40分喋ったのに対し、その猪木を紹介する新間が80分も喋っていたそうだ。

 今では笑い話になっているこの逸話を、筆者が実際にお会いした時に披露すると、新間は大笑した。

「あなたも早稲田大学? あのね、その近くにウチの実家のお寺があるの(※新間はお寺の息子。実家は新宿区の感通寺)。つまり、私もあなた方と同様、早大の鐘の音を聴いて育ったというわけだよ(笑)。それ考えると、もう、嬉しくなっちゃってさぁ!(笑)」

 果敢で熱っぽく、多弁で開放的。本人の人柄がよく出ていた一連のやり取りだったように思う。

 初めて仕事上でお会いしたのがいつだったかは覚えてないが、本当に多くのお話を聞かせて頂いた。場所は基本的には帝国ホテルのレストラン「P」(※昨年閉店)の個室。新間の弟が同ホテルで働いていることもあったようだ。14時頃、インタビューに行き、コーヒー1杯を頼んで取材を終え、経費で払おうとすると、会計が数万円になっており仰天することもあったが、これは、新間やその友人が12時頃から会食しており、こちらが合算されていたものだった。

 それ以上に「坊や(※筆者)、何してる? 遊びに来ないか?」と連絡を頂き、ご相伴にあずかったことは数えきれない。残った音声や文字にしたものを振り返ると、破天荒なまでに面白い。本人のライフストーリーに沿って、それらの発言の一部を紹介したい。

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