「社長、プロレスラー猪木は私との合作ですよね?」…“過激な仕掛け人”新間寿さんが生前に明かしていた“猪木ヘの思い”
「GWIP」か「IWGP」か?
先ずは自らが営業本部長を務めた新日本プロレスの売り出しについて。新日と同年に旗揚げした全日本プロレスの雄、ジャイアント馬場とアントニオ猪木がオールスター戦でタッグを組んだ際は、会場に多数の猪木ファンを配置させ、猪木に声援を送らせたというエピソードが有名だが……(1979年8月26日)。
「うん(笑)。とにかくこちらの方が人気があることを知らしめたかった。世間にもそれを見せたくて。毎週の大会も、テレビ朝日がゴールデンタイムで中継してくれてたから、カメラに映る範囲の席が空いてると、そこに女性客を後ろの席から連れて来て『どうぞ、どうぞ』と座らせたりしてね(笑)。大阪にはそういうのに協力的な(当時では珍しい)新日本ファンの女性親衛隊もいたんですよ。そのうちの1人が、今の栗栖正伸の奥さんなの。興行が成功したら、大入り袋を積極的に出しましたよ。マスコミの皆さまに5000円。スタッフは1000円なんだけど(笑)。スタッフには安い? でも、1990年かな? 正月に坂口征二さんと全日本の後楽園ホール大会に遊びに行ったら、馬場さんが、『ハイ、お年玉です』とくれたんだけど、中身は1000円だったよ(笑)」
実は馬場とはかなり懇ろな仲でもあったが、全日本は全米の大組織、NWAと提携しており、新日本プロレスはその後塵を拝していた。そこで新間が提唱したのが、世界各国からの強者を集めて闘わせ、真のナンバー1を決めようという“IWGP構想”だった。
「向こうが全米とのコネクションがあるなら、こっちはその上の“世界”だと。本格的に企画が始動すると、NWAに行って、向こうの副会長と私は2ショット写真を撮ったの。それを東京スポーツに『新日本プロレスは、NWAの協力を取り付けた!』と載せてね。そしたら馬場さんが即座に『そういった事実はございません』と声明を出して。全くもって、馬場さんの方が正しいんだけど(苦笑)。IWGPという名称はね。世界的な規模という部分で、『インターナショナル・レスリング』、つまり、IWの2文字を入れたかった。しかし、最強というコンセプトをどう表せば良いのかと。そうしたら、猪木vsアリ戦の通訳もやってくれたケン田島が、『新間さん、いい言葉がありますよ。GP、グラン・プリって付けるの、どうですか?』『なるほど、GPIWか』『いや、IWGPです』。あやうく間違えるところだったよ(笑)」
世界の強者が集まったIWGPは、1983年5月に開催されたが、新間はその11月に、新日本プロレスを退社させられる。社長の猪木が躍起になっていたバイオ事業『アントン・ハイセル』に多額の資金を注ぎ込んだことで、当時の新日は、初代タイガーマスクやラッシャー木村、アニマル浜口、寺西勇のはぐれ国際軍団の登場で大ブームを巻き起こしていたにもかかわらず、選手の給与は上がらなかったのだ。これを『アントン・ハイセル』への出資が原因と考えた一派のクーデターが起こり、猪木が新間をスケープゴートにする形で、騒動の決着をみたのだった。
「それについては言いたいことがある。(退社前年の)1982年、翌年のIWGPのために、会社は大変なお金を使ったんです。世界各地で予選リーグ戦をおこないましたしね。『アントン・ハイセル』も良くなかったけど、給与が微増だったのは、IWGPにかける金が必要だったためでもあります。実際、84年の第2回IWGPは日本人選手と常連外国人の参加だけだったから、大幅に利益が上がっているはずですよ。1回目は金をかけたこともあって、大人気だった。前年に東京の高島屋で新日本プロレス展をして、そこでIWGPのグッズを先んじて売ったら、その月の坪単価の売り上げは、新日本プロレス展が1番だったんだって。私は高島屋から、御礼として壺を貰いましたよ(笑)」
猪木の一連の異種格闘技戦の実現に腐心したのも新間だった。
「アリ戦ではね、ルール含めて、向こうが有利なことばかりだったから、調印式のテレビ生中継の際、『勝った方がファイトマネー総獲り』という契約に、強引にサインさせたの。そしたらその夜、アリ軍団がホテルの私の部屋に来て、今にも殺さんばかりに何か騒いでる。言葉がわからないから、私は同じホテルに泊まっていた通訳のKという女性に電話をかけて、『すぐ来てくれ!』と言ったんだが、来ない。結局、総獲り契約は破棄に。後でKに聞いたら、『深夜でしたし、新間さんが私を襲うのでは? と思って行けませんでした』と。その理由には、さすがに私もバカ負けしたよ(苦笑)。私が手掛けた異種格闘技戦では最後となる極真会館のウィリー・ウィリアムス戦。ゴング直前、極真側の大山茂が私に凄んで来たの。そしたらスッと間に入って臨戦態勢に入ってくれた選手がいた。藤波(辰爾)でした。彼は凄く優しい男だし、だからこそ、とてもその瞬間が印象に残っていますね。ちょうど猪木さんが天龍さんにシングルでフォール負けした直後に会ったことがあって(1994年)。彼は、『こんなことでいいんでしょうか……?』と悔しそうでした。自分がシングルでは勝ってない以上に、猪木へのリスペクトを感じましたね」
藤波を可愛がり、婚約時には奥さんの伽織さんをニューヨークのマジソン・スクエア・ガーデン(MSG)のリング上から紹介するという粋な計らいを見せた新間。4月30日、故人の弔辞を読んだ藤波はこう口にしている。
「藤波辰爾は、新間さん、あなたの作品です」
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